2012年4月30日月曜日

UFOの秘密 第2話


「政府は態度をはっきりさせるべきだ。治安という理由でこうした問題を論じたくないというのなら、なぜそのように言明しないのだろう?」とディミックはぼやく。

だが空軍は何も言わなかった。空軍によれば円盤は群集ヒステリー≠フ1種であるのだ。メキシコ航空兵団長ロドリゲス・カルデネスは否定的な言葉をつけ加えて、この種の新聞記事に対する相互の同意ということになれば良き隣人%Iやり方はまだ生きていると言う (注:米空軍が否定すればメキシコ側も同調して否定するの意)。実際そのようになっていたので、空中に物体を観測するように訓練されたパイロット、ナビゲーター、その他の要員たちは、もはや空軍情報部へ観測結果を報告することに熱心でなくなってしまった。荒っぽい返事が多すぎたのだ。観測することは疑いをかけられることであり、知ることは罪であった。アメリカという国がみずからそんな状態にあるということは狂った状態だけれども、やはりそうなの� �ある。

責任ある地位についているほとんどの人が、まるで自分が指導者としての力を持っているかのように、公的な態度をとるようになったのである。もし米国防省がそんなふうにやってゆくとすれば、読者は肯定的な面を強調するような人を頼りにするとよいだろう。

 あちこちから出てくる肯定的な報告類のさなかにあって、シカゴ大学の天文学教授、ジュラルド・P・カイパー博士は、メキシコで報告された円盤の乗員が小人であったという説を一笑に付したけれども、いわゆる空飛ぶ円盤のパイロットなるものは利口な虫か、または小さな植物かもしれないとほのめかした。これは火星で現在生きているものはその程度だろうという理由のためである。

この種の否定は当時その筋から否定されることはないだろう。それが"正しい"方向にそっているからだ。しかもこの考え方は他の天文学者のそれと同じなのである。

ところがカイパー博士と同じほどの高い地位にある天文学者達は、これとは異なる意見を持っているのである。多数の学者はこの問題に関してオープン・マインドを維持してきた。あの物体(複数) は空飛ぶ円盤だと信じていた人々もあるが、それがどこから来るかは不可解であった。少数の人はたぶんどこかの惑星から来るのではないかと考えていた。しかしカイパーの気まぐれな発言に乗せられて、大抵の人は円盤が火星から来ると考えていたと読者は思うだろう。一体円盤が火星から来るとだれが言っただろうか。オーソン・ウェルズ? (注:タコのような姿をしした火星人が地球を侵略したというSFを書いて米国にセンセーションをまき起こした男)。とっくの昔に死んだR・A・ロックの亡霊か? それとも軍部の策略なのか ?

空軍の将官がこの円盤問題について何かを書いたことは知られていな・いが、トゥルー誌は何とかして当時の家畜囲いから2人の海軍軍人を脱出せしめた。元海兵隊パイロットのドナルド・E・キーホー、それにまだ現役の司令官ロバート・E・マックローリンは、みずから見聞した空飛ぶ円盤について記事を書いたのである。それは冗長な、くだらないものだった。それらの記事は意味のないものだったと言えば酷に聞こえるかもしれないが、貧弱な材料だったというよりもむしろ拙い文章だったために、よけいにそうだったのである。とにかくトゥルー誌は円盤の分野では最初のものではなく、私はバラエティー誌に書いた記事によってトゥルー詰よりも10週間ほど先を行っていたが、フェート誌は更に私を1年も引き離していた。しかし� ��の記事は何かの焼直しではない。それまでだれも書いたことのない材料を用いたのである。

その記事の大部分はボストン、バッファロー、カンザス・シティー、ロサンゼルスに及ぶ広範囲の各種新聞に転載されたし、1、2のラジオ局からも放送された。

こうしたすっぱ抜きが続いているあいだ、空軍情報部は空中の観測物を前にして不気味な沈黙を保っていた。だがこの出現物のために全世界の人々は冷戦の議論から空飛ぶ円盤に関する熱心な推測へと方向を変えたのである。

科学者の名前はエドガー・B・デービスだ!

ところでデンバーといえば、1950年3月8日のあのナゾの講演者についての騒ぎが広がっていった。あの科学者の講演がテープに録音されたことや、それがキーラーの働いていたKMYR局で隠されたらしいということをだれかがおぼえていた。そしてキーラーの部下がデンバー市の実業家たちにそのテープを聞かせたために、デンバー大学のスパイ行為や逆スパイ行為説のバカらしさをよく理解できたのである。

その頃までには、講演が行なわれたとき町にいなかった学長がいや味たっぶりに発言し始めていて、教授団に指令を発した。これからはもっと慎重に講演者を選べというのである。デンバー・ポスト続開係の匿名の一筆者がこの間題を取り上げようとした。そして論評の中で、訪れて来る講演者のなかで匿名を用いる者を拒絶せよと書きたてたが、これは自分のことを棚に上げて他人を批判するものであった。

ラジオ放送を聞いた市民たちのなかに、同じデンバー・ポスト紙の記者がいた。彼は大学事件をあらためて日曜版に載せたが、これは陸軍航空隊情報部をふたたび刺激することになった。そこでキーラーはたまりかねて、これ以上拷問の材料を受け入れるわけにはゆかないと言った。

「あのナゾの科学者の名前はエドガー・B・デービスだ!」 と叫んだのである。

これを聞いた人はみな、どうやらほんとうらしいと思った。しかしエドガー・B・デービスとはだれなのか?ここで新たにその探索が始せったのである。

デンバー市民が講演のテープ録音を聞いていた、ちょうどその時間に、ハリウッドで数名の人が同じ講演のテープ録音を聞いていた。これはオリジナル録音をコピーしたものである。これはハリウッドの或る医師の自宅で聞かれた。そこの夫人は大学卒の看護婦で、以前は旅客機のホステスであった。この録音テープは或る地球物理学者が保管していたもので、私はこの人を長く知っていた。

このテープを聞いた人たちは驚いてしまった。しかもテープの声と地球物理学者の声がほぼ同1であるという事実によけいに驚いたのである。 もちろんデンバーとロサンゼルス間の飛行時間はわずか6時間だから、同じ日に両方の場所にいることは無理なことではない。

ところが3月17日にデンバー大学教授団、学生たち、新聞社、空軍情報将校連は、廊下の壁に 「初心者のための空飛ぶ円盤講座」と題するポスターを貼らせた例の科学者の正体をつきとめたのである。

4名の学生とタイムライフ社デンバー支局長バロン・ベシャー(この男は招待状なしに講演会場に押し入った)は、デンバーのポスト紙に掲載された写真類から判断して、その科学者はサイラス・メーソン・ニュートンだと確信したのである。この人はニュートン・オイル・カンパニーの社長で、1942年度コロラド州アマチュア・ゴルフ選手権保持者、ベイラー大学とエール大学卒、ベルリン大学大学院修了、レンジリー油田の再発見者、美術界の後援者、そして大体に世事にたけた人で、いうなれば科学者で資産家であり、どこにもいるような典型的アメリカ人なのである。

一学生がこの講演者をおぼえていると言い出した。この学生はレークウッドのゴルフ場で何度も彼のキャディーをつとめたことがあったために以前からずっとその正体を知っていたのである。だが評判にはならないことがわかっていたので、それまでは話さなかったのだ。この間題は秘密だということになっていなかったのだろうか。

2012年4月29日日曜日

ならず者は『デスペラード』、本日のブログは『エスペラント』|鐵’sブログ


ブログネタ:ガス、電気、水道止められて一番困るのは?

ガス、電気、水道、そして…LOVE

止められて一番困るのは、LOVEでしょうね。

真面目に答えます。

水道です。

申し遅れました。

私には、ギターケースに武器を入れている仲間がおりません。

アルカットワンのエル・テツオ・マリアッチです。

早速ですが、皆様は、『エスペラント』をご存知でしょうか?

実は、私も今朝、専務に教えてもらうまで知りませんでした。

私事で恐縮ですが、『エスペラント』と『デスペラード』

似てませんか?

イーグルスの『デスペラード』カッコイイですよね!

2012年4月28日土曜日

フランケンシュタイン * MARY SHELLEY'S FRANKENSTEIN カウチ生活/ウェブリブログ


映画では古典と言われ
実在しない想像上の人物や生きもが繰り返し作品になっているというモノも多いです

今回紹介する作品も過去に30本近く映画化されている人物のひとりで
その中のひとつとなりますが少し異彩を放っている作品とも言えるかもしれません

『フランケンシュタイン』です

 MARY SHELLEY'S FRANKENSTEIN アメリカ[1994]

  北極海を目指す探検家の船に命からがらたどり着いた男性は
  目標のために努力を惜しまないその探検家の姿をみて狂人≠ニ言うが
  その男は過去に自分がした恐ろしい実験と怪物の事
  そして自分の狂人ぶりをその探検家に話すのであった

原作の小説『フランケンシュタイン』と言うのがあるのですが
※参考Wikipedia → フランケンシュタイン 
内容としてはほぼ原作に忠実につくられているようです

2012年4月26日木曜日

関塾タイムス Monthly Special


心動かされるような本との出会いは、一生の宝物です。困難を乗り越えるためのヒント、家族や友だちを大切にする心、勉強が好きになるきっかけ・・・どんな宝物が隠れているかは、本を開いてみないとわかりません。
そこで、今回は「今この時期、皆さんに読んでほしい本」を、関塾の先生方に紹介していただきました。「こんな人に読んでほしい」「ここが感動した!」など、先生方のコメントを参考に、皆さんにぴったりの1冊を探してみてくださいね。

心に染みる名作たち。
日本の物語

他国の文化も学べる
世界の物語


『星の王子さま』
(岩波書店)
著:サン=テグジュペリ/訳:内藤濯

『人間の絆』 上・下
(新潮文庫)
著:サマセット・モーム
/訳:中野好夫
サハラ砂漠に不時着した「ぼく」は、ある小惑星からやってきた王子さまと友だちになって・・・。

「物事の本質について考えるきっかけになりました」
(東京都 Dr.関塾駒込駅前校 教室長・高橋礼子先生)

主人公は体にコンプレックスを抱えながらも、自分の行く道を模索する。著者の自伝的小説。

「人生とは、ということを、考えるきっかけになりました」
(東京都 Dr.関塾駒込駅前校教室長・高橋礼子先生)


『十五少年漂流記』 (新潮文庫)
著:ジュール・ヴェルヌ
/訳:波多野完治

『秘密の花園』
(西村書店)
著:F.H.バーネット
絵:グラハム・ラスト/訳:野沢佳織
十五人の少年を乗せた船が漂流した。ようやくたどり着いた無人島での生活が始まる。

「無人島のような見たことのない世界を体験してほしい」
(大阪府 Dr.関塾南茨木校 多賀正樹先生)

10年間誰も入ったことのない花園。ガーデニングを通して、少年少女が成長する様子がみずみずしく描かれている。

「主に女の子に読んでほしい名作です」
(兵庫県 進学アカデミー北条栄智校教室長・西村雅代先生)


『イワンのばか』
(岩波少年文庫)
著:レフ・トルストイ/訳:金子幸彦

『史記列伝』
(岩波文庫)
著:司馬遷
訳:小川環樹、今鷹真、福島吉彦
純朴でまじめなイワンが、悪魔の誘惑にも負けずコツコツと働いて豊かになっていくロシアの民話。

「皆さんも、イワンのように、小さな努力をコツ
コツと積つ み重ねて勉学に励はげんでほしいです」
(東京都 Dr.関塾明治通り雑司が谷校 内藤尭夫先生)

中国最初の歴史書『史記』で紹介される政治家や武将、刺客などの人生を描く。全5巻。

「矛盾や完璧など、多くの言葉が生まれた本です。漢字や故事成語 、歴史の勉強にも役立ちますよ」
(神奈川県 Dr.関塾国分北校 教室長・西山邦生先生)

2012年4月25日水曜日

バンダ 葉が落ちるのは? - 蘭の達人PRO.com


投稿者: すぬーぴー

今年の夏にバンダの花が咲き、花が咲いている間は玄関の日光のあたらない所に置
いていましたが、花が終わったので日光のあたるベランダに出して1週間くらいした
ら葉がボロボロと5~6枚位落ちてしまいました。おかげで葉が2枚になってしまい
ました。
本には低温か乾燥で葉が落ちると書いてありますが、前者は違うと思うので
後者かなあと思ってます。でも他の株は同じ環境でも育ってます。水は毎日朝に葉と
根にたっぷりとかけてます。下がコンクリートなので思ってる以上に乾燥してるので
しょうか?どなたか教えて下さい。

2012年4月23日月曜日

ホーム


「二人で写真を撮った事なんてあったかしら。」

ホスピスの屋上でお揃いの麦わら帽子をかぶった奥様は、嬉しそうに微笑みました。ご主人は照れています。

初秋の風は心地よく頬をなで、日差しも和らいできた頃でした。

 

 告知を受けて日も浅く、十分なフォローも受けられずに来られたはずなのに、ご主人は冷静に「死」を見つめておられました。病状は大変悪化しておりましたから会話することはお辛いはずです。でも、ご主人は堰を切ったようにお話をされました。まるで自分史を語るように・・・。

 残された時間をはっきり自覚しておられたご主人にとって、少しでも多く自分の事を、そしてご家族のことを知ってほしかったのです。元来は無口な方だったとのこと。もう少し時間があれば、きっといろいろと書き留めて置いたことでしょう。

2012年4月22日日曜日

ジュリア キャメロン, Julia Cameron, 菅 靖彦: 本


最も参考になったカスタマーレビュー

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5つ星のうち 5.0 自分が気づかない「心にはめたタガ」をはずし、自由な生き方を再生する画期的なガイド, 2009/9/26

Amazonが確認した購入(詳細)

レビュー対象商品: ずっとやりたかったことを、やりなさい。 (単行本)

一読して、そのすばらしさに驚愕しました。★10個です。
本当にあなたがやりたいことを妨げる心の叫び、恐怖、
周囲の雑音、思い込みを取り払うための、神の啓示、
シンクロニシティを得る方法を説いた「自分で自分を制限しない」
ための名著。

社会人として、生活人として、そこそこ暮らして
くると、両親や友人、仲間、読書、コミュニケーション、
メディアなどを通じて、自分の頭、心に、無自覚のまま
常識、規範、思い込みのルールをあてはめて、いつの間にか
「本来の自分がやりたかったこと」「本来の自分が思って
みたかったこと」を、だんだん忘れて、できなくなっていきます。

2012年4月20日金曜日

勝手に深読み!:2003


勝手に深読み!:2003

勝手に深読み!:2003


2003/01/01:「こんなこと、偶然じゃない!」
「真夜中の雨」TBS系テレビドラマ 2002/10〜2002/12

このドラマ、明らかに変でした。いくら、人気俳優が他のドラマとかぶるからって、わざわざ似たような役柄を集めなくっても、と誰しもそう思ったはず。実際、批判する投稿を新聞で見たこともあります。20年も前の事件の関係者が一同に集まるという設定も不自然だと。だいたい、1〜2話のチョイ役が東幹久ですもんね。織田裕二ファンなら、あれ?と思うはず。
で、上の台詞が主人公の口から出ました。「誰かにわざと集められたんだ」、おお!
ひょっとして、狙ってたのでしょうか?だとしたら、かなりあざとい。でも、こういうのは、かなり好きかも。


2003/01/04:「雨の中、傘をささずに踊る」
「THE ビッグオー」サンライズ制作テレビアニメ  2nd.シーズン 2003/01〜2003/03放映(予定)

オープニングがウルトラセブン、ジャイアントロボにナウシカ(「火の7日間」とか)、等々。製作者の「自分を創った作品たちへのオマージュ」か?
1st.シーズン最後の主人公の台詞は、「雨に唄えば」なわけで、アニメ世代とはかぶるとは思えない。でも、分る人だけ分ればいいし、何より、カッコイイジャン!みたいな感じ。主人公のキザぶりも、アンドロイド少女の健気さも、妙に思わせぶりな世界も、常道で本道で邪道。だって、「ショー」だし。やっぱり、作品ってのは、愛よね♪


2003/01/11:「こんな人に、私もなりたい」
「大きな木」シェル・シルヴァスタイン作 絵本

大学生の頃に友人が誕生日に贈ってくれたものです。原語版も買いました。原題は「The Giving Tree」。
無償の愛、献身、自己犠牲...こんな陳腐な言葉しか思いつかない自分が情けなくなります。子供以上の人に読んで欲しい作品です。シェル・シルヴァスタインの作品が子供向けの絵本コーナーに置いてあるのは、私にはどうも納得できません。
彼の詩は、シニカルなものが多いようです。絵本でも「人間になりかけたライオン」は、その哀しい結末が辛いです。でも、本作にある暖かさが彼の人間を見る姿勢の根本のような気がします。
すべての人に読んで欲しい、そんな1作です。


2003/01/18:「少し甘口のシチュウ」
「異星の客」ロバート・A・ハインライン作 SF小説

作者には「宇宙の戦士」という作品があります。私はその作品が、とても好きで、とても嫌いです。発表当時も、賛否両論を巻き起こしたそうです。私に「白人アメリカ男性」に対して、極端な偏見をもたらした作品でもあります。

本作は、「宇宙の戦士」とは全く趣が異なります。異文明との接触、が主題なのでしょうか?私の印象としては、もっと違うものを描いているような気がするのですが。
この作品は、大学時代の友人に薦められて読みました。10代から20代にかけてというのは、人から、本から、映画から、周囲の全てのものから影響を受けます。件の友人の考えには当時から賛同できませんでしたが、彼がその後の私にとても重要な影響を与えたのは確かです。

本作には、少々衝撃的な描写があ ります。ですから、誰にでも薦められるものではありません。ハインラインが、広い見識を持った作家であることを示すものとして、もっと知られて欲しい作品です。


2003/01/25:「僕を忘れないで」
「七つの風の島物語」株式会社エニックス セガサターン用ゲームソフト

売れなかったんですかね、これ。サターン用の人気ソフトは別機種で販売されることもありますが、これは見たことがないのです。すごく、良いゲームだと思うのですが。

売り文句は「究極のデジタルアドベンチャー絵本」。プレーヤーは、太っちょのドラゴンを操作して、様々な謎を解いていくことになります。独特の絵柄・世界にはまれば「最高!」ですし、合わなければ「何、コレ?」でしょうか。

一応、メインストーリーをクリアした後、その後に進まずに、最初からやりなおしかけて、まだ途中のままです。主人公が3種類のコレクションを集めるのですが、「石」の集め方に気づかなくて、全く揃わなかったんです。
メインストーリーの最終パートのムービーは泣きました。3Dで 作りなおして、もっと自由に島を歩けるようにして、別機種で出してもらえないでしょうか?速攻で買います。


2003/02/01:「アカデミー賞男優2人のヌードが見られます」
「バーチュオ・シティ」1995年 米国映画

分類すれば、「B級アクション映画」です。冒頭から、銃の乱射シーンがあり、死体が転がります。ですから、暴力シーンの嫌いな方にはお奨めできません(最近の暴力映画よりは、ずっとマシですが)。
この映画の面白いところは、登場する設定や背景です。人工知能、科学者の倫理、埋め込みチップによる犯罪者の追跡、仮想空間での模擬体験、人造人間、再生する不死の肉体、人体実験...特に私が惹かれたのが、人格のデータ化と合成、です。
主演のデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウがアカデミー賞主演男優賞を受賞したことから、レンタルビデオ屋などでも見つかりやすいと思います。機会があったら、見て欲しい作品です。


2003/02/08:「手塚治虫の歴史」
「鉄腕アトム」手塚治虫作 コミック

「正義と勇気の少年ロボット」、鉄腕アトムというと、そういうイメージがありませんか?全巻を読んでみると、そうではないことが分かります。

作者のライフワークとして、しばしば「火の鳥」が挙げられます。火の鳥の立場は基本的に不変です。この作品が「生と死と人間」という根源的なものを主題にしているからでしょう。
一方、「アトム」は、元々「アトム大使」という作品中に登場した少年型ロボットが読者に好評だったために、独立して生まれたました。最初から「読者の眼」の存在抜きにはありえない作品なのです。作者は、「アトムの足の長さ」にも気を使っています。

本作を全巻読み通してみると、その時代によって、作者が悩み苦しんだ姿が垣間見えます。掲載雑誌の都合などで中途半端に 終わった時もあれば、作者の迷いからか、辻褄が合わないようなことも起きます。「人間の味方でないアトム」も登場します。

作者が、自分の後からやってくる漫画家たちに嫉妬していた、という説があります。ありえない話ではないと思います。「嫉妬する」ということは、相手の才能を認め、自分と対等以上の存在と見なしてこそです。様々な「アトム」が描かれた、その同時代に人気を博した他の作者の作品と見比べてみても面白いかもしれません。
量も多いですし、全巻読むことをお薦めしにくいのですが、できれば読んで欲しい。そして、日本のストーリー漫画の礎を築いた作家の「偉大さ」と「人間臭さ」を味わってください。


2003/02/15:「巨匠アシモフに巨人と言われた作家」
「アルジャーノンに花束を」ダニエル・キイス作 SF小説

本作は、ダニエル・キイスの処女作であり、ヒューゴー賞を受賞した「中篇」です。後に、同名の長編版が書かれ、そちらはネビュラ賞を受賞しています。
ヒューゴー賞受賞席で、SF界の巨匠アイザック・アシモフから「どうやったら、こんな素晴らしい作品が書けるのか?」と問われて、キイスが「私も知りたい」と答えた、という逸話を読んだ記憶があります。
この会話は、その後の作家キイスの運命を暗示しているように思えます。

私が本作を読んだのは、中学生の頃でした。作家になることを夢見ていた生意気な中学一年生は、頭を殴られたようなショックを受けました。密度の濃さに圧倒されました。
長編の存在はずっと知りませんでした。社会人になり、勤め先の同僚から「長編もあるよ」と教え られて、借りて読みました。
おそらく、世間一般には、いくつかのエピソードが追加された長編版の評価は、「内容を広げ、深くした」というものでしょう。しかし、私にとっては中篇版を超えるものではありませんでした。
もちろん、多感な13歳と夢も醒めた23歳では、感じ方が異なります。けれども、私にとっての「アルジャーノンに花束を」は、本作なのです。


2003/02/22:「少女から女性へ、羽化の季節」
「桜の園」吉田 秋生 作 少女コミック

高校3年生の秋頃でしょうか。
同じクラスの女生徒たちが日毎に美しくなっていくことに気づきました。蕾がふくらみ、花が開いていくような、そんな時期を目の当たりにした感動を忘れられません。

クラスのほぼ全員が大学に進むような進学校です。しかも、ずいぶん前のことですから、髪を染めるどころか、化粧をする者もいませんでした。
素のままで、日に日に輝きを増す美しさ。休み時間は、彼女らをぼーっと眺めているだけで飽きませんでした。

私は、今でも、この時期の少女たちが化粧をすることには反対です。あの美しさを化粧品などで覆い隠すなんて、犯罪に等しいのではないかと思います。

本作は、チェーホフの名作を演じる演劇部の少女たちを描いたオムニバス形式になっていま す。
「バナナフィッシュ」「夜叉」などのハードな作品が有名な作者ですが、女性を描いた短編は、本当に「上手い!」と思います。
少女マンガなんて、と思われる方も、一読をお奨めします。

2012年4月18日水曜日

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2012年4月16日月曜日

Ciel Bleu: ミステリ(翻訳) Archive


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アラグラリンの領主である族長・エベルが寝室で殺され、その死体の横で短剣を握り締めていた男が捕らえられます。殺人の知らせは、モアン王国の新王・コルグーを経て、すぐにその妹であるフィデルマへ。フィデルマは修道女でありながら、同時に熟練した法の専門家ということを示すアンルーという高位の持ち主で、裁判官として、あるいは弁護士としてアイルランド五王国のいずれの法廷にも立つことができるという正式な資格の持ち主。フィデルマは、その日裁判官を務めた最後の訴訟で勝った若者の道案内で、早速修道士エイダルフと共にアラグラリンへと向かうことに。

2012年4月13日金曜日

夢のもつれの作品批評:三島由紀夫 バルザックほか


夢のもつれの作品批評:三島由紀夫 バルザックほか

 

 

 三島由紀夫への三章

   豊饒の……

   仮面と告白

   金閣寺と子猫

 

 建礼門院右京大夫集

 バルザック:ラブイユーズ

  P.K.ディック:アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

 ユルスナール:東方綺譚

 マハーバーラタ

 シェークスピア:マクベス

 泉鏡花:化銀杏

 上田秋成:春雨物語

 織田作之助:夫婦善哉

 鈴木道彦:プルーストを読む

 石丸晶子:式子内親王伝〜面影びとは法然

 ポオ:作詩の哲学または構成原理あるいは作曲のコツ

 

 


 

 三島由紀夫への三章

   1.豊饒の…… 

 

 いわゆる三夕の歌の一つ、藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮」について、三島由紀夫は「なかりけり」でこの歌がもっている、つまり要の字句だと主張しています。花も紅葉もと言いかけて、それを言葉の上で否定していても、花や紅葉という言葉が出てきた以上、そのイメージは残る。なかりけりと言うことによって、かえって寂しげな海岸風景にうっすらと華やかなヴェールがかかったようになると。……

 この文章は定家の歌の珍解などと冗談めかしていますが、それは謙遜か韜晦であって、本当は大真面目なもので、彼の最後の小説、「豊饒の海」の末尾と明白な関係があると私は思っています。

 「豊饒の海」四部作は、ほとんどが本多繁邦の視点� �語られ、第三作の「暁の寺」からは次第に彼がドラマ自体の主人公になっていくのですが、その最後に至って彼のかつての親友(松枝清顕)の恋人(綾倉聡子)と――第一作「春の雪」は清顕と聡子の許されない恋を描いたものです――六十年の時を隔てて再会します。しかし、落飾して月修寺の門跡となった聡子はあろうことかこう言います。

「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」


 自分が仏門に入った契機でもある、恋人を知らないと言う門跡に対し、本多は彼女が白を切っているとしか思えないものの、次第に不安に駆られます。

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」

 第一作のみならず、第二作、第三作の主人公、すなわち自分の人生と深く関わった人々がいなかったとすれば自分も存在していなかったことになる。うろたえる本多に、門跡ははじめてやや強く彼を見据えて――ということはあたかも審判を下すようにと言っていいでしょう――こう言います。

「それも心々ですさかい」


 心ごころ――あると思えばある、ないと思えばない、すべては相対的なものでしかない。ということだけなら、相対主義か独我論みたいなもので、ある意味ありふれた言明だとも思えます。実際、全編の通奏低音をなしている唯識論は、「暁の寺」で正面から取り上げられていますが、その煩瑣な議論自体が「それでも世界は存在しなければならない」から行われていると何度も繰り返されています。その執拗さは、逆に言えばこの世界の存在基盤の危うさを示しているようにも感じられます。三島は、現実世界の空虚さを実感していたのでしょうか。

 しかしながら、そういう見方は小説の中のことと外の生の世界での哲学的な議論をごっちゃにしていると言わなければならないでしょう。世界が� ��在するかどうかなんてことは、小説家である三島にはどうでもいいことだったはずです。小説が書ければ世界が存在しなくても別に問題はないよと。

 「豊饒の海」というタイトルは、月の「海」の名前で、当然水もなく、魚などが住めるところではありません。それを豊饒というところに皮肉というか、逆説があるわけですが、要は初めから「この小説はカラカラの砂漠みたいに何もないんですよ」と言っているわけです。「でも、言葉で、言葉だけで何もないところに豊饒なイメージを醸しだしてあげましょう」と。

 もうおわかりでしょう。主要登場人物と何より物語の全体を見渡していた、本多がいなければ……もちろんこの小説全体は存在しえなくなります。しかしながら、小説は元々愚にもつかないことを言葉だけ で成り立たせ、読者にうかうかと読ませ、納得させることが本義だと、三島は考えていました。この作品自体が輪廻転生という現代人にとっては、およそ真面目には信じられないことを主題にしています。その延長線上に、言葉によってできた大伽藍を最後になっていったん否定することによって、読者にこの小説の存在をかえって強く印象づけているのです。まさに定家の歌のように。

 「豊饒の海」の後には、藤原定家についての小説の構想を三島は持っていたと言われていますが、私はこうしたことからもう既に成されていたのだと思っています。海の上に横雲がたなびくように、見えるとも、見えないとも定かならずとも。……

 蛇足を付け加えることになりますが、「豊饒の海」の本当の最後に注目してみましょう。

「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……


                     「豊饒の海」完。
            昭和四十五年十一月二十五日」

 先ほど述べた小説全体の否定が心象と情景の描写となって締めくくられているわけですが、問題は最後の日付です。これは言うまでもなく、彼が市ヶ谷で決起し、自決した日です。実際にはかなり前に原稿は完成していたそうですが、そんなことはどうでもいいことです。この日付の記載は、この小説が作者の死の日に終わっていることを告げているわけですし、それ以外の理解は困難でしょう。例えばその朝に原稿用紙に書き終えて、軍服のような楯の会の制服に着替えて出発する、そういったイメージを喚起するものです。

 しかしながら、そんなことを他ならぬ三島が、他ならぬこの小説で言う必要があるのでしょうか。作者の事情(たとえそれが生死に関わることであっても)などとは無関係に純粋に言葉だけで小説を作 り上げてきた彼の姿勢から言って、幕切れで作者がひょいと顔を出しているような一行は、蛇足であると言わざるをえません。

 

 


 

  2.仮面と告白

 

 再び三島由紀夫の小説について書きます。今度は初期の代表作「仮面の告白」を取り上げます。この作品の有名な出だしは何を意味しているのでしょうか。

 「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。」

 生まれたばかりの赤ん坊にはっきりとした視覚と記憶があるなんて、ありえないことです。主人公もそのように受け取られることを意識していて、それを言わばモメンタムにして、この小説を展開していきます。

単純に考えればこういう『大嘘』をつくことが仮面の告白たる所以であると思えるでしょう。私自身の経験で言いますと、姉と話をしていて、この小説の題名から内容は「告白を装った真っ赤な嘘」というように理解していると知って、びっくりした記憶があります。

 つまり姉(あるいは少なからぬ人びと)は、「仮面=偽りの顔→告白=偽の発言」というふうに定式化しているのでしょう。

 しかしながら� ��それでは『告白』の意味合いがあまりにも希薄だと思えます。さすがに専門家は私の姉のようには理解していません。肉に食い入る仮面という言い方があるそうですが(誰が言ったかは知りません)、「仮面=別の人格(ペルソナ)but告白=(作者自身の)真実の発言」というのが文芸評論家などの常識でしょう。

 話がだいぶこみいってきました。かつては、こういうのが文芸評論らしいと思われたふしもありますが、別に大した話ではありません。前回、小説の本義は愚にもつかないことを言葉だけで成り立たせ、読者にうかうかと読ませることにあると、三島は考えていたと言いましたが(それは三島の一貫した姿勢だったと思います)、それが彼自身に向かった場合にどうなるのか、ということです。もっと簡単に言えば、� ��小説を(近代小説の本家である)ヨーロッパの小説の流儀で書いたらどうなるのか、ということです。

 私小説とは何か。私の勝手な理解では、作家自身に起こったことをほぼそのまま書いた大正時代から昭和時代に隆盛を極めた日本独特の文学形式となります。「ほぼそのまま」というのがポイントで、小説としての虚構なり、方法論なりを持たずにということですが、これには異論があるでしょう。「日記(今ならブログ?)じゃあるまいし、実体験をそのまま書くわけはないだろうが!」という文句があの世から来そうです。でも、私は言います。「じゃあ、その虚構性はなんのためだったんですか? 実体験が持つ真実性をより高めるために施したものだったんじゃないんですか?」と。

 小説の真実性。これは私小説 作家も、三島もずっと悩んできた問題で、たぶん現在の心ある作家もみんな悩んでいる問題だと思います。私小説作家は、その拠り所を最終的には実体験こそが最もリアルなもので、真実だということで解決していたのだと思います。すなわち、ありのままに書く、そのように見せるということです。……たぶんリアリズムという言葉をどこかで勘違いしていたのでしょうし、狂言綺語をものした紫式部が地獄に落ちたという伝承に見られる古臭い倫理観に捕らわれていたせいでしょう。

 三島の場合は、全く異なります。これは嘘っぱちだ、虚構だということを第一行目から押し出しながら、その中で真実性を成り立たせようとします。この小説には、エピグラフとして、「カラマーゾフの兄弟」がかなりの長文で引用されています 。それ自体が若い三島の並々ならぬ意気込みを示すもので、またいろんな意味でこの小説と深く関連しているのですが、とりあえず注目したいのは、最後の「しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ」です。

美と悪行(ソドム)との逆説的な関係について、ドストエフスキーらしい異常な熱とめまぐるしい論理の屈折の後に、ぽんとこの言葉が出てきます。論理的にはつながりがないにもかかわらず、この文章で抽象的な議論がいきなりリアルなものとなり、まさしく真実性を獲得していると思います。この個所とドストエフスキーの実体験は表象上は何の関係もなく、いわゆるリアリズムでもないにもかかわらず、圧倒されてしまうのです。……脇道に逸れますが、こういうドストエフスキーがぬっと出てきて いるところを読むと、地鳴りのような低音部がドライヴするチャイコフスキーの交響曲を思い起こしてしまいます。

これが三島の目指したものではないでしょうか。こうしたヨーロッパの小説の底力を見ると、我が私小説は何とも貧相な、中途半端なものに映ったのだと思います。「自分の痛いこと」を虚構の中で言うこと、これが仮面の告白の意味でしょう。

 私小説は、表面的には絶滅したようです、少なくともレッテルとしては。でも、まだまだ自伝的小説とかいうものは多いようですし、何より小説を読んで「私」とか「ぼく」とかの一人称で書かれていれば(もしかしたらそうでなくても)、作者のことだと思ってしまう読者は、現在でも53%(当社調べ)はいます。ミステリー作家の場合は、この数字は下がるそうで すが。……よけいなことばかり言って恐縮ですが、全集の解題にこの作品を「自伝的告白小説」としていたのには、思わず笑ってしまいました。

 では、三島がそんな手の込んだことをしてまで言いたかった「痛いこと」というのは、何だったのでしょうか。その答えもエピグラフが示していると思います。美とソドムの関係について述べられているわけですから、美とソドミー(同性愛、もう少し広くとれば性的逸脱)の関係と理解してよいでしょう。つまり聖セバスチャンです。さらに(これは三島が意識していたかどうかははっきりしませんが)、美と同じ意味合いで出てくる「聖母(マドンナ)の理想」からすると、母あるいは母性との関係があるように思います。この点は、彼の中ではおそらく「禁色」を経て、「サド侯爵 夫人」において終着点を見出しのでしょう。それらは、この作品と違って、「熱烈なる心の懺悔」とも「詩」とも言いがたいと私は思いますが。

 

 


 

  3.金閣寺と子猫

 

 三島由紀夫の最後の作品の末尾、初期の代表作の冒頭の順で取り上げてきましたから、最後は中期の代表作の真ん中でなければなりません。こうしたやり方は三島が最も好んだはずですから。


 「金閣寺」は三島の作品中、最もポピュラーなものの一つでしょう。足利義満による創建当初のまま残っていた金閣寺が放火されたという衝撃的な事件に取材したこと、最初から主人公の僧侶が犯罪を犯すことが読者にわかっていて、いわゆる倒叙もののスタイルをとっていることなどが人気を呼んだのだろうと思います。このわくわくするような(ミステリーのおもしろみのかなりの部分は犯罪を疑似体験する楽しみです)ストーリーを貫いているのが美(その象徴としての金閣寺)に対する三島独特の議論であり、それにリズムと興趣を与えているのが「南泉斬猫」という禅の公案です。

 昔々、ある禅寺で修行僧たちが紛れ込んできた子猫があんまりかわいらしかったので、二手に分かれて争っていました。これを見て、南泉和尚(歴史上有名な禅僧ですが)が子猫を斬ってしまった。これはどういうことか? 禅僧が猫と言えども殺生していいわけはありません。これが第一の公案です。公案とは、まあ悟りを開くための手がかりとなる質問と言ったらいいでしょうか。

 次に副住職である趙州(これも名僧の誉れの高い人です)が外出先から帰ってきて、南泉から子猫を斬ったことを聞き、意見を訊かれて、黙って頭に靴を載せてすたすた歩いて出て行った。それを見て、南泉は「ああ、今日おまえがいれば子猫は死なずにすんだのに」と嘆じます。これが第二の公案ですが、こうなってくるといわゆる禅問答、訳のわからない話らしいでしょう?

 これを主人公の溝口とアンチヒーロー(メフィスト・フェレス?)的な大学の同級生の柏木(彼も臨済宗の禅家の息子です)がいろいろと議論します。柏木は子猫を美そのものだと見立てます。美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないから、僧侶たちの争いの元になったのだと。さらに、美は虫歯のように舌にさわり、引っかかり、痛み、自分の存在を主張するのだと言います。しかし、痛みに耐えかねて抜くと、虫歯はもう死んだ物質にすぎず、美ではなくなる。南泉が子猫を斬ったのは、美を内部から抜こうとしたからであり、それでは猫の美しさは死んでいないのではないかと考えた趙州は、痛みを耐えるしか解決はないことを示すため、靴を頭に載せたのだと。……

 わかりにくいですが、話はある意味単純で、禁欲を強いられる修行僧にとって美は苦痛を与える存在であり(主人公たちは戒律を破るようなことをしていますが、精神的には縛られています)、それを斬って捨てるか、それに耐えていくかということでしょう。

 最初は柏木が南泉で、美に憧れる溝口は趙州だと柏木は言いますが、後では南泉=行為者、趙州=認識者という、三島の読者にはおなじみの定式が現われ、「君は今や南泉を気取るのかね」と柏木に挑発された溝口は、「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」と応えます。つまり猫を斬ることと金閣寺を焼くことが同値なものとして扱われ、南泉の行動が溝口の行動を正当化するという構図になっているわけです。


 しかし、この構図は小説の中の話としても大きな問題があると思います。まず趙州の行動が結局は解き明かされていないため、子猫=美=金閣寺が救われる途が放置されています。これが謎として残るのならいいのですが、読者にとっては消化不良になっていると思います。

 次に子猫を美と捉える基本的な枠組み自体、観念的で公案への解答としては落第です。どんな駄目な禅寺でも柏木たちは直ちに痛棒を食らってしまうでしょう。つまり禅僧のタマゴを主人公としているのに、リアリティがないのです。

 三島はここでは禅の公案を、「豊饒の海」では唯識論を扱っていますが、仏教、もっと広く言って宗教がわかっていたとは思えませんし、やめておいた方がよかったと思います。いろいろ彼なりの理由はあったのでしょうけど。

 じゃあ、そんなに偉そうなことを言うおまえは宗教がわかっているのか、この公案が解けるのかと言われそうです。……もちろんわかりません、解けませんw。だって、私は宗教を外側からしか見てませんし、公案は座禅を組んでいない者が解ける筋合いのものではないからです。つまり宗教は理解するものではなく、体験し、体得するものだからです。

 私が好きな公案を紹介したいと思います。うろ覚えで恐縮ですが、ある高僧が弟子たちの様々な問いに対し、無言で人差し指を一本立てるだけで答えていました。これを小僧が真似をします。和尚さんのジェスチャーが修行上の悩みへの回答になるなら、自分もと考えたのでしょう。大げさに言えば言葉を超越しようとする禅の方法論への諷刺とも取れます。小僧が自分の真 似をして兄弟子たちを困らせているという噂を聞いた高僧は小僧を自室に呼び、公案を投げかけます。もちろん得意になっている小僧は、指を一本立てて答えます。

 高僧は、いきなりその指を斬り捨てます。ぎゃぁと叫びながら逃げ出そうとする小僧。それに向かって、小僧の名前を呼びます。振り返った小僧に向かって、指一本が立てられます。その瞬間、小僧は悟りを開くのです。これはどういうことか。……
 指を斬るという一見戒律を破るような行為が小僧の悟達を助けるという大きな菩薩心に発しているといった平板な解説とか、斬り落とされた指と立てられた指は何を表しているのかといった構図とかでは、すなわち外側から考えていては、この公案を会得することは決してできないでしょう。

 小僧は激痛の中で、呼びかけられ、師匠のジェスチャーの真の意味、世界とそれを超えたものの姿を見たのだろうと思います。それは禅宗のみならず、すべての宗教に共通の直接的な体験、超越者との出会いなのです。それなしで宗教について語っても空虚なものでしかありません。

 ……三島の指を斬ってあげる人がいればあのようなことは起きなかったのではと思うのは、今さら言っても仕方のないことでしょう。

 

 


 

 建礼門院右京大夫集

 

2012年4月12日木曜日

ポールソン回顧録


リアルに再現される苦闘の2ヵ月半

 

アメリカでは政府高官が政策決定の回顧録を書くよき伝統がある。大統領から国務長官、財務長官、さらにFRB(連邦準備制度理事会)議長まで、さまざまな立場の人物が回顧録を残している。最近では、クリントン元大統領が2004年に『マイこフイフ』と題して出版。今年11月のブッシュ前大統領の場合には『ディシジョンーポインツ』という表題だった。財務長官ではロバート・ルーピンが『ルーピン回顧録』を書いている。

 

2012年4月10日火曜日

デルフト 旅行 観光


デルフトー小さくこじんまりした空間・石畳の道・教会から聞こえるカリヨン・・・ああ自分は今ヨーロッパに いるのだなあ、と実感する町。

デルフトは小さい割にホテル、レストランそして小さな美術館が多く、一年を通じて多くの観光客が 訪れます。ここに滞在すれば、 昼間は美術館・ショッピングを楽しみ、夜はレストランでゆっくり食事をとり、その後夏ならば夜中まで 屋外のカフェでおしゃべりを楽しむことも可能です。デルフトは観光&学生の町なので、夜遅くまでにぎわっている オランダでは珍しい町なのです。最近は世界中で人気のフェルメールの面影を求め、デルフトを訪れる旅行客も多くなっています。


 Nieuwe Kerk (新教会) tel: +31(0)15 2123025

開館時間: 日曜休館 4月−10月 9時−18時 11月−3月 11時−16時
デルフトのシンボル。オランダでは2番目に高い塔を持つこの教会はマルクトの中心に建っています。 中にはオランダ創設の父であるウィリアムI世の墓があり、彼の生涯やオランダ建国の歴史が説明されています。 また歴代の女王・王をはじめとするロイヤルファミリーのお墓もここにあります。