1."I was meant to be"
自らの死期が近いことを悟ったイギリスの詩人オーデンは、1971年、死滅しつつある肉体に向かって、そこから離脱していく魂が語りかけるという体裁の詩を書き上げた。「自分自身に語りかける(Talking to Myself)」と題されたその詩の一節を引用する。
「
予測もつかないことであったが、君は、何十年も前に、自然の胎内から
わき出る滝のように際限もなく生まれては消えていく生物たちの間にやって来た。
ランダムな出来事だ、と科学は言う。私の根底がランダムだと言うのだ! しかし、私に言わせれば、これこそ、まぎれもない奇跡なのだ。
なぜなら、自分が存在する定めにあったと確信しない者など一人としていないからである。
"Unpredictably, decades ago, You arrived
Among that unending cascade of creatures spewed
From Nature's maw. A random event, says Science.
Random my bottom! A true miracle, say I.
For who is not certain that he was meant to be?"
」(1)。
この「自分が存在する定めにあったと確信しない者など一人としていない」というオーデンの主張にどれほどの人が同調できるかは定かではない。自分がこの世に生まれたという事実は、誰にとっても取り返しがつかない過去に属しており、そこには自分が関与する余地のないランダムな事実の堆積があるばかりであると考える人にとって、この詩は単なるナンセンスとしか映らないことだろう。さらに言えば、単なる妄想としか映らないことだろう。
しかし、ナンセンスであると評するにせよ妄想であると評するにせよ、私にとって私が存在するという事実がある意味で必然的であるということは論理的に確かなことである。これは簡単に証明できる。私が「私は存在する」というとき、その言明は必然的に真なのであるから。このことは、私が「私は存在しない」と言うとき、それが必然的に偽であることを考えれば納得できることである。
もちろんこうした空虚な論理的思弁をオーデンが考えていたということはありそうもない。しかし自己の一生を一個の(詩)作品という形で語ろうとする者にとって、自己自身は存在しなければならないし、その自己がこの世に到来するという出来事も存在しなければならなかった。誕生という出来事は、一個の物理的事象として見ればランダムな出来事にすぎないが、作品において自らの生を語ろうとする者にとっては、その作品が有意味であるための絶対的な前提条件である。その作品が(おそらく有意義な形で)終焉を迎えようとしている今、オーデンはそれがかつて始まらなければならなかったと断言することで、自らの生が無意味に始まり無意味に閉じようとするから救い出そうとしたのだろうか? 自らの生を作品として救お� ��としたのだろうか? いずれにせよ次のことだけは言える。偶然性を否認することは思考の本姓に根ざした行為である、と。そして、こうした思考のあり方が、この詩の上掲の一節に端的に言い表されている、と。なぜなら、思考とは事実の背後に意味を求めようとするものだからである。あるいは、事実の背後に意味を作り上げようとするものだからである。偶然や無意味ほど、思考が忌み嫌うものはないからである。
さて、以下では、オーデンが直観的に掴み取ったことを思考・妄想・ナラティヴといった概念に関連づけることによって、一種の哲学的ナラティヴ論の端緒を素描することにしたいのである。まずは「思考」を俎上にのせることから始めてみよう。
思考について上に述べたような捉え方は、おそらく少なから� �人々が表明してきたのではないかと思われる。私にとっては、ある時期以降の(「詩作」として「思索」を捉えようとした)ハイデガーやそれに倣った晩年のハンナ・アレントなどがそうした見解にコミットしていたことが何よりも重要である(そもそも上のオーデンの詩も、アレントの『精神の生活』で引用されていることから、初めて私の注意をひいたのだった(2))。アレントはこの詩の一節を「真実(事実)と意味の区別」を際立たせるために挿話的にしか使っていないし注釈めいたことも記していないが、肝心なことには触れていた。つまり、「この「存在する定めにあった(meant to be)」ということは真実(a truth)ではない。しかしこれはきわめて意味のある(meaningful)命題なのだ」と言っていたのである。
事実の地平で確証できたり反駁できるような問題を真実(a truth)あるいは事実(a fact)に関わる問題だとすると、そうした問題を解決する任務は科学に帰されなければならない。しかし科学が扱うべき問題群(真実や事実の総体を「世界」と呼ぶならば、世界に関わる問題群とも言える)で人間の理性が提起する問題が汲み尽くされてしまうわけではない。このことは既にカントが「悟性(科学的な意味での知性)」と「理性」の区別で示したとおりである。魂の不死性や神の存在については、科学が解決できないからといってその問題の有意義性が否定されるわけではないし、それが「意味」のある問題であることを止めるわけでもない。それと同様に、私が存在する定めにあったという言明は科学的に言えば偽の言明にすぎないが、偽と判定されるからといってその言明が(少なくともオーデン自身にとって)意味を もつことを止めることになるわけではない。私が誕生し今に至るまで存在してきたことは一個の事実にすぎないが、その事実の意味を求めたりそれにどのような意味を与えようかと苦慮することは科学者が真理を求めるのとは別個の活動である。アレントはこの科学とは別個の活動を、ハイデガーに倣って「思考」と呼び、その活動の本質を(真実・事実の総体としての)「世界」からの「引きこもり(withdrawal from the world)」と定義した。もちろん、思考が世界から引きこもるのは、世界の意味を求めるためなのである。
アレントがこの区別によって狙っていることはカントの「悟性(知性)」と「理性」の区別をより一般化することであり、それによって哲学的思考には科学的活動とは別の存在理由があることを積極的に示すことだったのだろうが、この小論の関心はそうした大状況の方向に向かうのではなく、もっと卑近な範囲で確認できることに照準を絞っている。「世界からの引きこもり」という表現は、何か「世界没落体験」に見舞われた人が自分の部屋に引きこもって一歩も外に出られなくなるというようなイメージを喚起するかもしれない。確かにそれも「引きこもり」の一例だろうが、アレントはもう少しありきたりで、日常誰にでも起こっている現象としての「引きこもり」を念頭においている。少し長いが、アレントによる「思考」の� �え方がはっきりする箇所を引用してみよう。