マルケスのいる風景
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青木冨貴子
その年、夫ピート・ハミルはわたしの誕生日に何か特別のプレゼントを用意している様子だった[…]
そして、その日の午後、垂れ下がった大きな耳をもつ黒い子犬が到着した。犬好きのわたしのために、彼が前から欲しかったラブラドル・リトリバーの子犬を贈ってくれたのである。[…]
当時、わが家にはチェックオフという老犬がいた。チェックオフというのは、ロシアの文豪チェーホフを英語読みにした名前で、ピートの娘の犬だった。[…]
翌朝、子犬を抱いたわたしは彼の名前を考えはじめた。チェーホフに対抗するわけではないが、同じ屋根の下に住む一方� �ロシアの文豪であれば、片方もそれなりの品位と風格を兼ね備えた名前にしたいものである。[…]
わたしはひとりで「ソウセキ、伏せ」とか「オウガイ、お手」などと反復していたが、半年前にキューバで会ったノーベル賞作家、ガルシア・マルケスのニックネームが「ガボ」であることを思い出した。「ガボって、良いと思わない?」
彼のプレゼントとはいえ、わたし名義の犬の名前について、あくまで口を出さないよう努めていた夫が、ついにニヤリとした。
『ガボものがたり―ハミル家の愛犬日記―』
[補遺]この時のマルケス訪問については「ハミル、ピート」の項参照。
青野聰
ぼくはミラーの一作目の「北回帰線」から順を追って読もうとしていた。二十世紀を� �表するこの小説を取りこむ袋が、自我がまだ貧弱なために備わっていなかった。すごさの片鱗にふれたと感じたのは三年ぐらいたってからで、そのまえにジュネを読みふけった。これはミラーを「あんなものは、アンチャンの文学だ」とこきおろした、暗黒舞踏系のダンサー石井満隆の勧めによるものだ。女装して、肌を小麦粉で白くして優雅に踊る彼とのつきあいは、おもえばジュネをよむことからはじまった。彼のなかにジュネが住みついてしまっていたので、ジュネとしゃべることが、すなわち彼としゃべることだった。マルケスの「百年の孤独」は彼の知人のフランス人におしえられた。こうしていても目が真っ青でやぎひげを生やした、すこぶる善良なそのフランス人が、スペイン語で書かれた今世紀最良の小説のひとつなんだ よ、と子供に話すようにして「百年の孤独」の魅力を説明してくれた、パリのアパートの薄暗い一室がおもいだされてきてキーを打つ手がとまる。いくたびもいくたびも転がりこみ、集まってくる文無しと安いワインを飲んで、少ない材料でうまいものをつくって食べ、いい季節になるとばらばらに散っていた歳月を……。
「今までに読んだ本の量は……。」
青山南
ジョン・アーヴィングの日本での『ガープ』タイトル戦争については前に書いたとおりだが、アメリカでも似たようなことがあったのを知った。モノはガブリエル・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』。この「百」の処理にかんして、訳者と批評家がけんかしていた。[…]
「こないだマイケル・ウッド教授が『百年の孤独』に言及� ��た文章を書いていた。その内容を云々する気はない。ただ、どうしても気になったことがあるので、それを書く。ウッド教授よ、あなたはなぜ、
"A Hundred Years of Solitude"
と表記するのかね。わたしは、
"One Hundred Years of Solitude"
と記したはずだ。確かに、原題は、
"Cien años de soledad"
であるからして、数字の意味はアイマイである。しかし、この小説の結末を読んだとき、これは"One"であって"a"ではない、とわたしは確信した。ガボ(マルケスの愛称)にも問い合わせてみたが、ガボも、その通り、と言ってましたよ。"one"こそ、自分の考えを体現している、とね。ウッド教授よ、答えなさい!さあ、どうだ」
ウッド教授はこう答えていた。
「悪気はなかったですよ。ただ、わたしはあなたの翻訳であの小説を読んだわけじゃないので、つい、"a"とやっちゃったってことです。ほら、"one"だとなんかおおげさで、いばってるかんじがしますでしょ。だから、もっとカジュアルな"a"を採りました。でも、こんなことを言ってたら、ラバッサさんも御存知のとおり、翻訳なんてできゃしません。あなたはえら� �よ。なにしろ、できないことをやってるんだから」[…]
ある日、偶然、洋書店の棚にウッド教授が書いた『「百年の孤独」論』を見つけた。表紙には、"100 Years of Solitude"と、なんと、数字で表記してあった。
『ピーターとペーターの狭間で』
安部公房
ドナルド・キーンさんから「『百年の孤独』を読んだか」と聞かれ「知らない」と答えると、「とんでもないことだ。これはあなたが読むために書かれたような小説だからぜひ読みなさい」と教えられた。「僕は英語が読めない」と言うと、「冗談じゃないよ、翻訳があるじゃない」。あわてて新潮社に電話して手に入れました。読んで仰天してしまった。これほどの作品を、なぜ知らずにすませてしまったのだろう。もしかするとこれは一世紀に一人、二人というレベルの作家じゃないか。
*
まるで魔術師みたいにギュッと魂をとらえてしまうあの力は解説でつくせる� �のではありません。とにかくマルケスを読む前と読んでからで自分が変ってしまう。一番肝腎なことは、ああ読んでよかった、という思いじゃないか。もし知らずに過したらひどい損をするところだった、見落さないでよかった、という、これこそ世界を広げることだし、そういう力を持っている作家との出会いというのはやはり大変なことです。文学ならではの力というべきかもしれない。
『死に急ぐ鯨たち』
遅ればせながらでちょっと恥ずかしいけれど、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を最近読んで、非常に驚嘆すると同時に、やはり、今世紀の傑作の一つではないかと思った。あの小説の場合、マルケスは意識してか、意識しなかったか、非常に素朴なスタイルを取っているように見える。しかし、それでいて、書 くということがなぜ作者の中で成り立ったのか、成り立たせているのかという依りどころを失わずに、しかも非常に構造的に、「なぜ読むのか」という問いに対する答えを出していると思う。「昔あるところに」と言ってしまうと、作者が神様になってしまうけれど、あの作品はそうじゃない。年代記風になっているけれど、作者は超越した存在ではなくて、書かれている世界と同じ次元に自分を埋め込んでいる。
『都市への回路』
こういう方法でしかとらえられない世界があるってことね。単におもしろかったり奇をてらったりしているわけじゃないんだ。こういうおもしろさがつかめないような感受性では、現代文学のすぐれた部分をそっくり見逃してしまうことになる。とくにこの『百年の孤独』は、一世紀に何冊かしか� ��ないレベルの作品だからね。
『マイブック』
〔補遺〕安部公房についてのマルケスの文章がある。
来日した折り、辻井喬や大江健三郎らと会合を持ったことに触れ、「安部公房だけが見あたらなかったが、彼は後日、ひとりきりでやってきて私を誘い出し、プライベート・クラブのひっそりとした片隅で話をした。私はそれまでお茶とビスケットだけを取りながらあんなに笑ったことはなかったように思う。」(「アミーゴ健三郎」(田村さと子訳)《新潮》平成7年3月号)
〔参照〕文献抜書帖
アルモドバル、ペドロ
夜、街に出て、ひっきりなしに人にほめられるなんて気持ちわるくてうんざりよ。やれパディなしじゃ『ラ・ルナ』は廃刊になるだろうとか、ヘ� ��ベバ・ブラバンテからこっちスペイン文学ではパディほどのキャラクターは存在しなかった、なんてね。このあいだなんか、マドリードの日刊紙がインテリや文化人と称してる連中に、『ドン・キホーテ』以後スペイン語で書かれた小説のベストテンをあげるようにアンケートしたんだけど、なんとひとり残らずわたしの告白を選んだのよ。なかには『百年の孤独』より上位にわたしの作品をあげる者もいたくらいなの。いったい、あの連中はわたしを何だと思ってるのかしら。
『パディ・ディスプーサ』(杉山晃訳)
アレナス、レイナルド
国家公安局は生贄の羊としてエべルト・パディージャを選んだ。パディージャは公的なコンクールに『オフサイド』という批判的な本をあえて提出したこ とのある、体制にとっては不遜な詩人だった。[…]
一九七一年、パディージャは妻のべルキス・クサ=マレとともに逮捕された。独房に閉じ込められ、脅され殴られて三十日後にその独房からぼろぼろの人間となって出てきた。そのパディージャの話を聞くために、キューバの知識人たちのほとんどがUNEACを通じて国家公安局から招かれた。[…]
国家公安局に拘留されているあいだに革命の美しさを理解し、春をうたう詩をいくつか書いた、と言った。パディージャの話だとそれまでの作品をすべて否定しただけでなく、自分の妻をも含めて反革命的な態度をとっている友人全員の名をおおやけにしてしまったという。パディージャは一人ずつその人物の名を挙げていった。ホセ・ヤネス、ノルべルト・フエンテス、レサ マ=リマ。[…]
パディージャに反革命的と指摘された人物はみんな後悔するかのように胸をたたき目に涙を浮かべながら、パディージャのいるマイクのところに駆けつけ、自分の罪を認
め、自分がつまらない人間、体制に対する裏切り者であることを認めなくてはならなかった。むろん、そのありさまは国家公安局に残らず撮影され、そのフィルムは世界のありとあらゆるインテリ層を巡り、とりわけパディージヤの不当逮捕を非難する手紙に署名した作家たち全員に見せられたのだった。その中には、マリオ・バルガス"リョサ、オクタビオ・パス、フアン・ルルフォ、そして、いまやフィデル・カスト口が抱える最も重要な操り人形の一つとなったあのガルシア=マルケスさえいたのだ。
『夜になるまえに』(安藤哲行訳)
飯島耕一
草原のたてがみいろの黄昏にけり 赤黄男
一九八二年ノーベル文学賞を受賞した中米(ママ)コロンビアの作家、ガルシア・マルケスの小説は、わたしにはちょっと読み難かった。『百年の孤独』も『族長の秋』もはじめのほうを読んだだけで早々になげだしてしまっていた。それがこの間、マルケスがシナリオを書いた映画『エレンディア』の試写を見てまことに面白く、帰ってすぐに『百年の孤独』をみ読み始めると今度はどんどん作品に入って行ける。色彩ゆたかな国の、近代文明のやって来るのが遅かった国の、しかもホラ話なのだ。話が少しずつ、いや大いに大げさなのだ。そこから人間臭とユーモアが奔出するのであった。まだ三分の一ほど残っていて、目下読みつつあると ころなのだが、こういう時、俳句のことに頭を切りかえるのはいささかつらい。
送られて来る句集や俳誌を開いてみるのだが、どれもが息の短い、小手先のきれいごとにしか見えないのだ。
先回は西東三鬼について述べた。と、三鬼と同年代で、三鬼とは互いに意識し合っていた宮澤赤黄男のことを思い出した。
赤黄男の句ならば、ガルシア・マルケスの濃厚な色彩にも拮抗してくれるかも知れない。赤黄男の句には濃い色彩というものがありそうだ。
『俳句の国徘徊記』
〔補遺〕飯島耕一がマルケスについて言及していることは、やはり詩人の平出隆による『光の疑い』で知った。
石原慎太郎
あなたの『けものがれ、俺ら』は、すごい映画になるよ。ガルシア・� ��ルケス原作の『予告された殺人の記録』という映画、あれを思い出したよ。猿と肉食虫、嫌なイメージの小説だよなあ(笑)。あれは撮ったらすごい映画になる。
「文学と発イメージ力」(町田康との対談)
池澤夏樹
この小説が繁茂する木々といった自然物の印象を与える理由もこのプロットの多岐にある。作者の創作の意図はからみあう無数の枝と葉と蔓の間に隠れている。[…]
先程の木のパターンの比喩をもう少し先へ延ばした読者は、『百年の孤独』という邦訳にして千枚ほどの小説は実は発表されざる一万枚の大作の要約であると同時に、百枚からなる高密度の短編のパラフレージングであり、それはまた十枚のあらすじの拡大ではないのかと夢想に至るだろう。あるいはそれは、メ� �キアデスの羊皮紙文書に誘導された夢想かもしれない。
『ブッキッシュな世界像』
ただ話の筋だけをなぞるのはまだ本当に民話的とは言えないかもしれない。大事なのは民話を語る精神の方であり、聞き手の熱意についつい促されてとんでもない話を紡ぎ出してしまう物語の勢いの方である。そういう意味で、二十世紀の文学で民話的手法を徹底して用いて大成功をおさめたのはガルシア=マルケスということになる。
『海図と航海日誌』
ガルシア=マルケスは事件だったんですよ。ぼくにとっては…。ガルシア=マルケスとぶつかったというのは、やっぱりその後の自分にとっては非常に大きな、いまだにすっかりは表面化していない事件でした。
『沖にむかって泳ぐ』
〔参照〕文献抜書帖
井上荒野
若いときには、どうしても筋を追うんですよね。どうなるんだろうと思いながら読んでいて、どうにもならなかったりすると、なんだこれは?つて憤然としたりする。でも、だんだん読んでいくうちに筋じゃないところがおもしろいということがわかってくるんです。フォークナーなんかはそうだと思うし、マルケスなどでも、小さな子供がもし読んでもきっとわからないと思うけど、案外細かな描写なんかは残っていくんじゃないですか。[…]
でもきっと、雨の中にカニがいるとか、牛が川を流れていくとか、そういう感じが残っていくような気がする。それは決して悪いことではないと思う。
*
マルケスの『予告された殺人の記録』は ちょっと衝撃的でした。生活と風土と殺人事件がまったく渾然一体となっていて。えっ、南米ってこうなの?と(笑)。あれは南米という土地自体が持っている独特な何かなんだと思うんですけど、日本の小説でいうと大江健三郎さんの四国とか、中上健次さんの熊野とか思い出したりもしました。
「名作を見る楽しみ、読む喜び」(三木卓との対談)
井上光晴
ドストエフスキーとソルジェニーツェン、或いはフォークナーとヘミングウェイがもし存在しなかったならと考えると、世界文学と読者の関係は見事に照射されてこよう。ロシア、アメリカ文学に限らず、カフカは「虫」に変身しても不屈な精神のありかを証しだててくれたし、カリブ海の沿岸に生まれたマルケスは、愛と死にまつわる飢えに 似た『百年の孤独』を、蝶を食う植物のように花開いてみせた。
『世界名作文学館』
上野千鶴子
タイトルについて説明しておこう。『百年の孤独』は、ガルシア・マルケスの著書からとった。荒唐無稽な英雄物語だが、ここに(メキシコ・編者註)いるとどんなことか起きても不思議はない、と感じられる。『千年の愉楽』は、中上健次の作品のタイトル。うまい名をつけるものだと、一瞬嫉妬した。「千年の」は、非歴史的な無時間を思わせるが、「百年」なら、長い中断のようなものだ。ふと「百年の孤独」から醒めたら、まわりの景色がすっかり変わってしまっていた、というように。またたくうちに変貌していく周囲の景色に、ひとり取り残される英雄の孤独はきっと深いに違いない。「百年」 は、わたしにとって意味がある。
「百年の孤独」
エリクソン、スティーヴ
─あなたの作品をはじめて読んでまず思ったのは、"この作家はフィリップ・K・ディックとラテンアメリカ文学を読んだフォークナーだ"ということだったんですが。
「僕もまさにそういう反応が出てきていいと思うんだが、アメリカではまずそう読んでもらえない。較べられるのはたいてい、J・G・バラードとトマス・ピンチョン。バラードはほとんど読んでいないし、ピンチョンは素晴らしい作家だと思うけれど僕とは全然違う。一番影響を受けているのは、君が言ったようにフォークナー、ディック、ガルシア=マルケス、それにヘンリー・ミラー、エミリー・ブロンテ。ずっと前、漱石の『こころ』とブロンテの� ��嵐が丘』を二晩で読んだのは強烈な体験だった(笑)」
『愛の見切り発車』柴田元幸
大江健三郎
コロンビアのというより、すべてのラテン・アメリカの国ぐにの作家としての、ガブリエル・ガルシア・マルケス。メキシコシティ北縁の住宅地の、高い石造りの壁に囲まれた家に移ったばかりのマルケスを僕は訪ねたが、かれにもまた独自のアイデンティティーを達成した作家の印象があった。憂わしげに疲れたところと、生き生きと活発なところとが表裏一体をなしている点で、このブーツをはいたコロンビア人は、モカシンの大靴をはいたダンツィヒ人と似たところがあった。かれは翌日キューバに発つはずで、キューバ大包囲の時期を描く方法の、その底柢にデフォーの『ペスト年代記』を置くこ� ��を考えついたが、どうだろう?と訊ねた。
この時すでにマルケスは、『族長の秋』を書きあげていたのだろう。かれは小説の語り口の選び方に、複雑な手つづきを集中する作家だが、自分が書きあげたばかりの『族長の秋』の語り口の工夫に、うしろから呼びかけられるように気をとられているふうでもあった。一年おくれて、英訳でこの小説を読んだ僕は、その語り口の確実な達成に、感銘をあたえられた。ラテン・アメリカの社会の、多様な、しかし統一的なものを求めているその総体が、表現者に対して望むところは複雑にちがいない。しかもマルケスは、過剰なほどに個性を輝かせながら、作家としてのアイデンティティーを成就している。それはスペイン風の中庭をへだてて母屋に対する、大工の仕事場のような書斎で、 旧式の大きいタイプライターよりは他はなにも置いていない机の前に坐っていた、ガブリエル・ガルシア・マルケスから、僕が感じとっていたところと、同一のものに思える。
(文中、ダイツィヒ人とはギュンター・グラスを指している)
『表現する者』
[補遺]大江のこの時の訪問についてマルケスも後に次のように記している。
「それまでに彼の名前を耳にしたことはなかった。しかし、自分と非常に似かよった個性の核をもっている人と出会うことができた、まれな神秘的出来事のひとつとして彼の存在を忘れたことはない。」(「アミーゴ健三郎」田村さと子訳,《新潮》平成7年3月号)
コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア・マルケスも、長篇『族長の秋』では、やはり層をなす多様� ��意味をはらむ独自の再生を描いていた。ラテン・アメリカの一独裁者が影武者の死を機会に、いったん自分も姿をかくす。かれの名における葬儀は国家規模でおこなわれ、ナイーブに死を悼む者と死体を辱かしめようとする者とがある。死んだ人間としてすべてを隠れ場から見た独裁者は、突然公けの場に帰って、報奨し報復する。そして心底怯えた民衆からそのいきさつは、再生と受けとめられるのである。およそ独裁者たる者に共通の惧れと夢をないまぜてあらわす、この再生の劇は、またラテン・アメリカの情況を典型的に体現しているマルケスの、大きく根柢的な緊張をあらわすものであった。
『小説の方法』
大岡玲
すべての時間のトップ文学作品
さて、日本で小説を書いている人間としてひっかかるのは、不安定で非日常が日常化している風土でなければ、刺激的な小説は生まれない、という考え方である。たしかに、中南米文学の成功にはそうした側面があったかもしれない。しかし、果たして私たちがおさまりかえって考えているほど、私たちの周囲は穏やかで閉鎖的なほどに固まった社会なのだろうか。戦争のひとつ、飢餓のひとつ、クーデターのひとつもなければ、面白い小説ひとつ書けない社会なのだろうか。
私には、そんな風にはどうも思えない気がするのである。ラテンアメリカでは、たまたまそういったものが顕在化しているに過ぎなくて、健康で鋭い視力を持った者にならば、� ��怪な秘密は平等に開かれているかもしれない。だが、日本にだってそういうものの芽や大木があるのは確実なのだ。ただ、見えない秘密を見るだけの視力訓練が不足しているのだ。そして、その訓練は、まず見える秘密に精通するところから始まる。[…]私も、あらためて視力開発に励み、ガルシア=マルケスを驚かすような小説を物してみたいと、『百年の孤独』を読み返しながら大それた夢想をしている。
「なぜガルシア=マルケスのように書けないのか?」
小野正嗣
きっといまでもそうじゃないかと思いますが、ガルシア=マルケスは当然読んでおくべきだというような風潮があったので僕もがんばって読みました。宮崎県に「百年の孤独」って名前の琥珀色のきれいな焼酎があるんですけど、� ��の名称はガルシア=マルケスの小説からつけられたんだって友達から教えてもらって、むむむ、ガルシア=マルケス恐るべし、って。
「浦とマグノリアの庭」柴田元幸とのメール対談
カポーティ、トルーマン
─外国の作家についてはどうですか?
外国の作家か……。南アメリカの作家に何人か評価したい作家がいる。『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスは好きだ。彼は才能がある。カミュは、個人的には好きだが、将来彼の作品が残るとは思えない。サルトルとか、シモーヌ・ド・ボーボォワールは、勘弁してくれだ。
『カポーティとの対話』ローレンス・グローベル(川本三郎訳)
如月小春
(「心の書」として『百年の孤独』を挙げ)(引用者註)
� �めて読んだ時、こんなに面白い小説があるか、と思った。[…]
いわばこれは人間図鑑、物語の集合体。想像力の産物であることを忘れさせてしまうほどの見事な語り口。物語の背景にあるのは、「孤独」という名の生の暗やみ。そこから欲望がすさまじい力で噴き上げて、この濃密な物語世界を構築している。
『わたしの「心の書」』
黒澤明
『族長の秋』については、この仕事が終わったらもういっぺん、そういう角度から考えてみます。で、もし、これならいけるという気持ちになったら、こういう具合にやりたいとこちらからご連絡します。
マルケスとの対談「創造の秘密」
〔補遺〕「この仕事」とは「八月狂詩曲(ラプソティー)」。マルケスから自作の映画化 を打診された際の返答が上の引用文である。(参照:マルケス百話17話「マルケスと黒澤明」)
クンデラ、ミラン
城のふたりの助手はおそらくカフカの最大の詩的発見であり、ファンタジーの驚異である。[…]十二章では、K、フリーダ、それにふたりの助手が小学校の教室を寝室に変えて仮住まいする。女教師と学童たちが、この信じがたい四人家族が朝の身支度をしはじめるときに入ってくる。彼らが平行棒に掛けられた毛布のうしろで着替えをしていると、面白がり、興味をそそられ、好奇心を抱いた子供たち(彼らも覗き屋なのだ)が彼らを観察している。これはこうもり傘とミシンの出会いを超える出会いであり、小学校の教室とうさんくさい寝室という、二つの空間のすばらしくも突飛な� ��会いなのだ。(現代小説のアンソロジーの先頭に掲げられるべき)かぎりない喜劇的ポエジーをもつこの場面は、カフカ以前の時代には考えられないものだった。まったく考えられないものだった。このことを私が強調するのは、カフカの審美的な革命の根底性のことを言うためにほかならない。私はもう二十年もまえのガブリエル・ガルシア=マルケスとの会話を思い出す。彼は私にこう言った、「ひとが別様に書くことができると理解させてくれたのはカフカだった。」別様にとは、本当らしさの境界を超えてということだ。それは(ロマン主義者のように)現実世界から避難するためではなく、現実世界をよりよく把握するためなのである。
『裏切られた遺言』(西永良成訳)
小島信夫
保坂さん� ��ぼくに『唐宋伝奇集』を読んでおくように、と編集部に依頼したときに、脳の中で〈生きるよろこび〉のことを考えていたのだ、と思う。いつだったか、保坂さんは、電話でほんのちょっと打合せ話をしたとき、急にマルケスの『百年の孤独』のことをこういったような気がする。「あれは、何度も何度も記憶を辿ったり、たしかめたりしている小説だ」と。
「往復書簡 日々のレッスン」(保坂和志との往復書簡)
『百年の孤独』には話者が思い浮かべる場面と別の場面との組合わせは、いくつもいくつもあるが、計算されたもののようにいわれている。そうでなければ、あの長篇は作りあげることはできないが、果してどんなふうにして組合わせが行われているのであろうか。
『各務原・名古屋・国立』
コル� �サル、フリオ
彼ら(ニカラグアの知識人たち、大学や中学の学生や教師たちによる識字隊;編者註)は義務や暇つぶしのために出かけるのではなくて、詩人たち、作家たち、造形芸術家たち、音楽家たちと直接的対話を求めているのだ。そのことを強く認識する機会があった。ガブリエル・ガルシア=マルケスとロヘリオ・シナンとぼくとがマナグアの庶民的な公園を埋めつくした聴衆を前に自分たちのいくつかの文章を朗読した夜のことである。芝生に腰をおろした何百人もの大人たち、若者たち、子どもたちが朗読されるひとつひとつの言葉をむさぼるように追っていた。
『かくも激しく甘きニカラグア』(田村さと子訳)
[補遺]コルタサルについてのマルケスの発言を以下に写す。
「コルタサ ルにおいてヨーロッパ的と見えたものは、ブエノスアイレス自体が持つヨーロッパの影響にほかならないんだ。今度の旅でブエノスアイレスに行き、
僕は、コルタサルの登場人物が街のそこらじゅうにいるよう印象を受けたよ。」
(「宿命の対決」(野谷文昭訳)《エスクァイア日本版別冊》1990年No.2)
ゴルバチョフ、ミハエル
あなたはわが国で、大きな権威をもっています。あなたの作品は、他の国よりもソ連の方が、発行部数が多いのではないでしょうか。この国にはあなたの読者が大勢います。
[…]
あなたの作品─『百年の孤独』その他─を読ませていただきましたとき、ここには図式はないし、これらは人々に対する愛、人類愛に貫かれている、と感じまし た。
「世界はペレストロイカを求めている」(マルケスとの対談)大石雅彦訳
ゴールドストーン、ローレンス&ナンシー
返事を待たずにマイクルは先に立って、店の左側の壁ぎわにある錠のおりたガラス戸棚へ案内した。戸棚のなかには〈セルザー&セルザー古書〉と小さい看板がかかっていた。やや芝居がかった身ぶりで、マイクルは戸棚の錠をあけた。「ここならお気に召すような本があるかもしれませんよ」そういうと、手をのばして、緑と黄の色褪せたジャケットの本をとりだした。その本は、開架式の棚にならんだ何百冊もの五ドルや十ドルの本となんのちがいもないように─そして、価値も変わらないように─見えた。ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だ。
「この本にはユニ ークな歴史があるんです」いいながら、マイクルはわたしたちの手にその本をおいた。むこうがその本をさわらせてくれたことが意外だった。「もちろん、初版本です」とマイクルはつづけた。「アルゼンチンでは一九六七年に『シエン・アニョス・デ・ソレダッド』という題ではじめて出版させました。ハーパー・アンド・ロウが版権を買ってアメリカ版を出したのが七〇年。売行きは不振で、まもなくハーパー・アンド・ロウは売れ残りを裁断処分にしました。いうまでもなく、ガルシア=マルケスがのちにノーベル賞をもらうとは夢にも知らずに」含み笑いをして、「そんなわけで、初版のうち生き残ったのは、すでに売れた約二千部だけ。この本には四百ドルという値をつけましたが、実をいうとこれは異例の値段ですよ」
� �れがたしかに異例の値段であることは、あとでわかった(その後に、この版の『百年の孤独』に七百五十ドル以上の値がついているのを見たこともある)が、四百ドルはわたしたちにとって根源的に異例の値段だった。ふたりで顔を見あわせ、いかにも買おうかどうしようかと迷ったふうにながめ、裏をひっくりかえし、ページをぱらぱらめくった。
「ふーん、とてもいい本ですね」内心では、じたばたもがきながらいった。「でも、やはりちょっと……」
マイクルはうなずいてマルケスをわたしたちから受けとった。手を離れたとたんに、その本がほしくなった。
マイクルは『百年の孤独』を棚にもどし、べつの本をとりだした。小さな、赤っぽい、古ぼけた本で、ジャケットもない。表紙も背もまったくの無印。[…]
「『ユリシーズ』です」
『古書店めぐりは夫婦で』(浅倉久志訳)
コンフィアン、ラファエル
ガルシア=マルケスには、アイデンティティーの探求がありません。客観的に見て、彼はスペイン入植者たち、コンキスタドールの子孫です。彼は自分が誰であるのか知っていて、そこには何の問題もないのです。だから、私はマルケスのようには書けないのです。「ラテンアメリカ」という言葉がありますが、この土地においては、入植者の直系の子孫たちと、そうでない人々を区別する必要があります。たとえばガルシア=マルケスのように極端な左翼主義者であったとしても、コンキスタドールの子孫たちは、混血児、アメリカ・インディアン、黒人、レバノン人、日本人等々のようにアイデンティ� ��ィーの問題には直面していません。
「不透明さの権利」(塚本昌利訳)
佐野忍
一九六八年秋、ただただ日本から脱出したい、可能性のある社会アメリカで自分を試してみたいという漠然とした、しかし止むに止まれぬ思いを抱いて、五〇〇ドルを懐にしただけのまったくの徒手空拳でロサンゼルスに上陸して以来、六か月の観光ビザで二年半余の不法滞在、ガーデナーの日雇い、ヘルパー、皿洗い、バスボーイ、飯炊きなどのお定まりの職業を転々としつつ、いつもイミグレーション(入国管理官)の影に怯え逃げ回りながら辿り着いたニューヨーク。そこで就いた職業がバーテンダーだった。[…]
客との対応もようやくスムーズにできるようになった頃、出会ったのが、その男、アルバロ・� �ペタ・サムデオであった。コロンビアのカリブ海地方バランキジャ市出身の実業家でありコラムニストでもあったアルバロは、彼のビジネスの一つ、アメリカ映画の買付のために一月おきにニューヨークに来ては試写を見たりしていたのだが、どういうわけか日本酒が気に入り、いつの頃からか、夕方、食事時になると、「酒ピーポー!」と自分でつけた自分の渾名を叫びながら、陽気に私のバーに飛び込んでくるようになったのである。[…]
コロンビア人気質丸出しにいつも明るい「酒ピーポー!」が常にも増して嬉しそうに私の前に現れたある日、奥さんとともに中年の夫婦がいっしょだった。「サノ!今日は嬉しい日なんだ。いっしょにパーティをしよう!」と彼は言う。同行の友人は彼と同郷のバランキジャ市から来た男で� ��学の同期生。新聞記者をしていたんだが、小説家に転向して、今回、ニューヨークのコロンビア大学から名誉文学博士号を授かったので、そのお祝いをしようと言うのである。その日はとくに杯が進み、大騒ぎ、私にとっても楽しい一夜であった。「サノ!コロンビアはいいぞ!おまえ、コロンビアに来いよ!」[…]
その時の「酒ピーポー」の同行者は、いかにも田舎のおじさんという感じの男で、あまり英語を喋らず、もっぱらスペイン語を、それもぼそぼそ喋っていた。そして、一冊の著書を取り出して、サインをして私にプレゼントしてくれた。その本はCien Anos de soledadという題で、「ああ、この男はそんにも長い孤独を胸に抱いているのか」と、私はその考え深気な男の顔を見直したのであった。[…]
一年半後、私はボゴタ行きの機上にあった。日本のある宝石商のエイジェントとしてエメラルドの買付にいく出張の途上である。「ああ、いよいよ『酒ピーポー』との約束が果たせるんだ」という思いがあった。[…]私はたまらず隣りのコロンビア人らしい乗客に話かけてみた。
「もしかして、アルバロ・セペタ・サムディオという人を知りませんか?」
「知ってますとも、コロンビアでは有名な実業家で文筆家でしたよ」
「でした?」
「半年ほど前、ニューヨークの病院で亡くなりましたよ。ガンでしたよ」
[…]
のちに、私がニューヨークでプレゼントされた『百年� ��孤独』の見返しにサインされたガブリエル・ガルシア=マルケスという名をノーベル文学賞受賞の報道の記事の中に見た時にも、私の心には慶賀の気持ちとともに、アルバロを失った悲しみが改めてこみあげてきたのだった。
『緑の火』
沢木耕太郎
あるいは、私たちが日常的に行なっている「ノンフィクションを書く」という行為も、本来は極めて古臭くフィクショナルなものとして印象されるストーリーを、いくつかの固有名詞、いくつかの数値で、危うくリアリティーを繋ぎ留めつつ述べていこうとする、虚実の上の綱渡りのような行為かもしれないという気がしてきた。そういえば、ノンフィクションとフィクションの世界を往き来したことのあるガルシア・マルケスにこんな台詞があった。
「たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない」
確かに、ただの象は空を飛ばないが、四千二百五十七頭の象は空を飛ぶかもしれないのだ。
『象が空を』
島田雅彦
昔、ソルジェニーツェン、『煉獄のなかで』という小説でスターリンを登場させているんですよ。執務室で一人、本を読むときのシーンなんかが妙に印象に残っていてね。スターリンは脂性で、ページをめくると本の紙に、手の脂が染みつくというような、妙に生々しい描写がある。その語り手が、どうしてスターリンが一人で読書をしているところを見られるんだなんていう話はさておきそれはすごくリアルであ る……。
つまりね、これはフォークロアの伝統を近代小説の技法でもって逆手にとるという、一つの典型なんだろうとずっと思ってきたわけです。その手法の延長上に、例えばマルケスの小説も位置づけられようし、あるいはスティーブ・エリクソンの小説なんかもある。
「世紀の狭間と新しい恋愛文学」(福田和也との対談)
ジョサ、マリオ・バルガス
一九六七年、『百年の孤独』という小説がブエノスアイレスで出版され、ラテン・アメリカの文壇に地震騒ぎにも似たものを引き起こした。批評家はこぞって傑作と認め、大衆もこの評価を裏付けた。以後、一時は週に一刷の驚くべきスピードに達した増刷が次から次に売切れになったのである。作者は一夜のうちに、フットボールの大選手や� ��レロの名歌手とほとんど変わらない有名人となった。
*
アカプルコからメキシコ・シティへ車で旅しているとき、と彼は語っているが、不意に、子供のころから書き続けてきた小説が「見えた」のである。彼自身の言葉だが、「それはすっかり出来上がっていた。その場でタイピストに、第一章を一語一句の間違いもなく口述できただろう」彼はすぐに、大量の用紙とタバコをかかえて書斎にこもった。半年間そこに籠城するとメルセデスに宣言し、つまらんことで、とりわけ家事に関係したことでじゃましないでくれ、と頼んだ。実際には、彼は一年半もわが家のその一室にこもっていた。そこを出たとき、彼はぼんやりし、ニコチン中毒にかかり、肉体的崩壊のせとぎわに� ��ったが、手に千三百枚の原稿を─一万ドルの家計の赤字といっしょに─かかえていた。屑籠には五千枚近い反古が投げ込まれていた。『百年の孤独』が出版されたのはそれから数ヶ月後のことである。
*
われわれは『百年の孤独』のなかでめざましい開花に立会う。数学的で、抑制のきいた機能的な散文は、想像から生まれた最も大胆な存在にも動きと魅力を与えることのできる、熱い息遣いに満ちた文体に変化した。幻想はもやい網を断ち切って、凄まじい勢いで狂奔し、無軌道ぶりを発揮しながら、ついに、ブエンディーア一族という最も人眼を惹く住民たちを通して、百年にわたるマコンドの生活を空間と時間のなかに描きを上げた。
「ガルシア=マルケス アラ� �タカからマコンドへ」(鼓直訳)
暑さ、風味、音楽、肉体に備わる知覚と欲望が織り上げる一切のものが彼の中では何の気取りもなくごく自然に表現され、空想もまた同じように自由に羽ばたき、途方もないものに向かってのびのびと展開して行きます。『百年の孤独』や『コレラの時代の愛』を読んでいると、このような物語は、こうした言葉、雰囲気、リズムで語らない限り、本当らしくて真実味があり、魅惑的で人の心を揺り動かすような作品にはならないと思わせられます。逆にそうした言葉から遊離してしまえば、あれらの物語は私たちを魅了することはないでしょう。なぜなら、あのふたつの物語はそれを語っている言葉そのものだからです。
「若い小説家に宛てた手紙」(木村榮一訳)
[補遺]マルケ� �はジョサとの対談の中で『百年の孤独』の登場人物に触れ、次のように発言している。
「最後のアウレリャーノを籠に入れる尼僧は、『緑の家』のパトロシニオ以外にはありえないと僕は考えているんだ。君の小説のこの人物がどうやって君の本から僕の本へ来ることかできたのかを知るために、僕は彼女についても少し調べる必要があった。」(「宿命の対決」(野谷文昭訳)《エスクァイア日本版別冊》1990年No.2)
(参照:マルケス百話33話「マルケスとジョサ」)
白石かずこ
冒頭の、まだ火事の起きる前の祖母とエレンディラの屋敷、窓の外でさわがしくのぞく駝鳥、シャンデリア、そして砂漠のテント。風景もまた、ここではものいわぬ名優である。孫娘に春をひ� �がせた強欲な祖母の話を軸にしているものの、実は、こういう風土そのもの、大快楽と大悲惨をいつの時代も抱きあわせたラテンアメリカという特殊にして普遍的な土地そのものを、その上に住む豆粒のような存在の人間を抱きこみながら、かくということが彼の文学の本意なのではないか。
『愉楽のとき・白石かずこの映画手帖』
須賀敦子
途中で日本からの慰霊団を乗せたバスが消えて、それがその後、「バス・リポート」という形で何回か出てきますね。あれは随分、可愛いバスで、重い主題の小説の中にああいうものが出でくるのが新鮮でした。何か、ガルシア=マルケスのウィルスが飛び回っているような感じで…。
「南の島の終らない物語『マシアス・ギリの失脚』をめぐって」(池澤夏� ��との対談)
二十年とちょっと前のこと、神と小説の死が叫ばれていた時代のヨーロッパに、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』をはじめラテン・アメリカの新しい文学作品がつぎつぎと紹介されたとき、多くの作家も一般の読者も心からほっとした。やっぱり物語は可能だし、その快楽なしに人間は生きられないという、本来ならあたりまえのことが、政治論議にあけくれ、あるいは不毛な実験小説の砂漠に迷いこんで方角をうしなった人々のうえに慈雨のように降りそそいで、大きな安堵をもたらした。
『本に読まれて』
スティブンソン、ホセ
シェイクスピアの両親の名前は何だった
ガルシア・マルケスは魔法のようにして彼の現実を作り出している、と考えている人がいるわけですよね。けれども違うんですよ。ガルシア・マルケスは、海岸地方をうまく表現している、海岸地方の様々な伝統のいくつかの要素を表現しているんですよ。それと、海岸部には、大昔から伝わっている口承の伝統があるんです。彼は、そういう要素の最良の部分を使って自分の世界を作り上げたんだと思います。すべての伝統を内にもっているのです。
『アメリカ・アメリカ』(中上健次著で引用文は中上との対談での発言)
セプルベダ、ルイス
娼家には、特にアリ・カンヘは進んで出かけた。そこはトタン屋根の、� �い板でできた大きな小屋で、経営していたのはドニャ・エバリスタ。六十代の肥えたチリ人で、その仕事でデビューしたサンチャゴやブエノスアイレスの街がふと懐かしくなると、ぼくたちの肩にもたれてすすり泣いたり汗を流したりした。ドニャ・エバリスタをタンゴに誘うとウイスキー一本と煙草一カートンが店のおごりになった。ぼくたちのタンゴはまあまあだった。ただカナダ人だけは別で、自分が見聞きすることをメモするのにいつも忙しかった。それは小説を書くためだが、彼の話では『百年の孤独』よりいいものになるはずだった。肥えた女将はカナダ人への恋心をつのらせ、彼の書いているのを見るたび女の子たちを静かにさせた。
『パタゴニア・エキスプレス』(安藤哲行訳)
高樹のぶ子
この収容所にチリ難民が多く暮らしていた一時期がある。
チリ人たちはこれらの建物を含む一帯の風景を、マコンドと読んだ。
マコンドとは、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』に出てくる地名だが、東欧からの難民も『寂しい村』の意味をこめてそう呼んだらしい。どことなく時分たちの境遇を哀れんでいるような、自嘲や自らへの憎しみさえたち混じった語感が、ここに暮らす人々の気持ちを捉えたということだろう。
『百年の預言』
[補遺]『百年の預言』(樹のぶ子・朝日新聞社)をめぐって作家・林真理子と作者との対談がある。
林 「『百年の預言』って、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』からとったんですか。
樹「そうじゃなくて、日本だと十年たつと場所の雰囲気が全然変わ� ��ちゃうけど、ヨーロッパに行くと、時間の厚みを感じるじゃない。あの時間の厚みみたいなものを書きたかったの。
(「マリコのここまで聞いていいのかな」《週刊朝日》2000年2月25日号)
高橋源一郎
二十世紀の「小説の中興の祖」ガルシア・マルケスの代表的作品は、よく読むと、むすうの断片によって成り立っている。かれの作品は、現代文学ではなく民衆の古い記憶や伝承の上に物語を構築していったとされるが、厳密にいうならそれは過ちである。たとえば、マルケスの読者は音楽を聞くようにかれの作品を読むが、それは古いメロディーが再現されているからではない。マルケスは、現在の読者がすでに過去の音楽を楽しめないことを熟知している。だから、かれは一度、ひと� ��ひとつの音にまで分解してから再構成する。そしてその音はサンプリングマシンによって人工的に作られた音である。
「文芸時評」
マルケスは好きな作家です。『百年の孤独』を読んで、これは大変な作家だな、と思って以来の読者なんですが、マルケスを読んで一番驚かされるのは一般的に考えられているのとは逆で技術%Iなことなんですよね。『族長の秋』でいうと、文章のスピードがものすごく速いんです。これが作品の特徴だと思うんですけど、最初の一行に足をのせたら、超高速のエスカレーターに乗ったように読者を運んでいってしまう。これは『千一夜物語』とか、ラブレーなんかでもそうだけど、奇妙な話の面白さによってひっぱっていくんじゃなくて、文章を人工的に処理する─例えば言葉をものすごく省� ��するとか、因果関係をとっぱらうとかいった技術的な処理をして、速度感を与えているんですね。『百年の孤独』も速いけれど、『族長の秋』の方がもっと速い。『百年の孤独』は自然に読みうる文章の非常に速い典型というふうに僕は思ったわけです。
『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』
立花隆
昨年、サパティスタ民族解放軍というメキシコ先住民組織が武装蜂起した。黒い目出し帽をスッポリかぶって銃をかまえる彼らの独特のスタイルをテレビで見たことかある人も多いだろう。彼らはスペイン人がメキシコ征服にやってくる以前にあの地方に住んでいたマヤ族(あのマヤ文明を築いたマヤ族)の末裔なのである。あれはどういう組織なのか、もうちょっと知りたいと思っていたら、『もうた� ��さんだ!』(現代企画室)という、同解放軍が発行しているコミュニケや書簡などを集めた資料集が出た。その冒頭に反乱副司令官マルコス(最も有名なリーダー)が、「必要不可欠な序文」という実に不思議な文章を書いているが、これがいい。ほとんど、ガルシア・マルケスの世界といってよいような幻想文学的文章なのである。あるとき、ゲリラ基地でラジオのスイッチを入れると、オウムとインコの甲高い声しか聞こえない。裏蓋を外すと、中にいた二八羽のオウムと金剛インコの群れが飛び立った。そこに一羽の雌オウムが書き残した一通の手紙と小さな卵があった……。この物語を読むためにだけでも、この本は買う価値がある。このような物語を書くことができるリーダーが指導する武装ゲリラ組織とは何なのか。
『ぼ くはこんな本を読んできた』
ダニング、ジョン
ハーパー&ロウは、クノップと同じようにだいたい信頼できるが、一九六九年ごろから七三年にかけての五年間は注意を要する。今は天国の大書店にいるハーパー氏とロウ氏にしかわからない理由によって、その時期には、どういうわけか最初のページに初版≠ニ明記するだけでは飽きたらず、最後のページにも一連の数字を刷りこむようになったのだ。まあ、考えてもらいたい。私には、本を出版する側の人間が、本を慈しみ、収集の対象にして、売ったり買ったりする側の人間を憎み、嫌がらせをしているとしか思えない。大枚七百ドルをはたいて『百年の孤独』を買い、あとになってせいぜい四十ドルにしかならない増刷本をつかまされたことに気がつ� �哀れな収集家を見て、天国の二老人は、揉み手をしながら笑い転げているのだろう。その『百年の孤独』の場合は、とくに手が込んでいる。数字の羅列をこっそり忍びこませた版とは別に(初版本には1で始まる数字がついている)、数字がいっさい入っていない版も存在するのだ。一般には、数字なしの方か本当の初版だといわれているが、知識も洞察力も豊かな古書店主の中には、少数ながらそれに異を唱える者もいる。ひとつだけはっきりしているのは、その時期のハーパー社の本は裏ページをたしかめなければならない、ということだ。
『幻の特装本』(宮脇孝雄訳)
田村さと子
カストロ首相主催のレセプションを最後に丸三日の討議(ラテンアメリカ及びカリブ地域文化人会議)を終えた翌� �、私はガルシア・マルケスのハバナの滞在先に招かれた。[…]最初はどこか警戒心を棄てきれなかった私だが、その気さくさ、あたたかさ、繊細さは、まるで旧知の人と出会った感情を抱かせた。彼もメルセデス夫人も長く苦しかった作家としての待機時代に感じたみじめさや、友人たちから示された思いやりを、世界の第一級の小説家と評価されるようになった現在も決して忘れてはいないように思えた。私のような駆けだしの無名の娘をまったく対等の人格と認めて、熱弁をふるった。吃りだすほど言葉と思いをあふれさせながら。
『南へ』
〔参照〕文献抜書帖
団野文丈
明治の開業いらい百年の伝統を持つという醸成技術によって造られた瓶詰めの「百年の孤独」は、酒� �元からの安定供給が望めないらしく、常に品切れになる怖れがある。それなのに屋台には他に一切酒らしいものは置かれていない。ビールもなければ日本酒もなく、ワインやウイスキーもない。「百年の孤独」それだけで、屋台と客たちは物語を紡ぎだしているのだった。[…]
ムーさんが読む本といえば、漢詩や華厳経の書物といった、常連客からすれば僧侶でも思わせる類のものばかりなのだ。ところがこの日は、上下二段にびっしりと活字が組まれた物語を読んでいる。
その本の表紙を見ようと、ゴンジーの語り部がカウンターに顔をくっつけて覗き込むと、黄色い帯に「ノーベル文学賞受賞」という文字が浮かびあがる。さらに驚いたことには、帯にも表紙にも屋台で飲んでいる焼酎の名前が印刷されてあるのだった。「ユーモレスク地帯」
[補遺]焼酎「百年の孤独」は実在する。醸造元は宮崎県高鍋町の黒木本店。大麦を原料としポットスチルによる単式蒸留後、樫樽貯蔵した麦焼酎。ガラス製の円柱形のビンを独特の包装紙でくるみ、コルクのラベルが貼られている。醸造元の社長によれば「焼酎もラテンアメリカも、文明に駆逐されている運命が似てる気がして」文豪の代表作の表題を商品名としたという。
都築隆広
ジョイはワープロすらみなくなった。踏み台のうえでゆったりとした夕暮れどきを楽しんだ。「百年の孤独」は長い小説である。プルーストの「失われた時を求めて」のように一万枚もないが、永遠に終わらないのでは、と疑いたくなる量だ。わずか数行でマコンドの街には数年の歳� ��が流れるので、実際の枚数より長く感じられる。ただの大地だったマコンドに人々が移住し、ジプシーの一団が定期的にやってくる。やがて墓地ができ、教会が建設され、町長があらわれ、戦争に巻き込まれる。G・ガルシア=マルケスの文章はろくに本を読んだことのない、渇いたスポンジに似た彼の脳味噌に水滴のように染み込んだ。こうしてスポンジからは水が溢れ、床のうえを静かに広がっていった。
「看板屋の恋」
津島佑子
日本の神話のアマテラスとその弟のスサノオのつながりもここで連想させられるし、母と息子の場合の「近親相姦」については、ギリシャ神話のオイディプスや、実際に母親ではないにしても、義母を犯す光源氏の例がまっさきに思いつく。そして、神話的近親相� �を現代に復活させたのが、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』だったと、ここで気がつかされる。
『快楽の本棚』
辻邦生
毎日繰り返す散歩の楽しみとともに、遠い未知の国に旅立つ心のときめきも、人生に欠き得ない。読書も同じだ。毎日繰り返し読む枕頭の書とともに、たえず驚きと未知の感覚を与える新しい読書体験も必要だ。この意味でここ何年かラテンアメリカ文学は遠い国への旅立ちに似た興奮を与えつづけた。ボルヘスの精緻な物語的迷宮の中で、コルタサルの知的構成のアクロバットの中で、カルペンティエールの玉虫色に光る魔術的リアリズムの眩暈の中で、ガルシア=マルケスの奔騰する映像の過剰増殖のあらしの中で、ぼくは文学を読むことの幸福を噛みしめた。
『永遠の書 架にたちて』
いかにしてそういう創造的なものが生まれるのか。例えばガルシア・マルケスの場合だったら、土俗的なほら話をしてみんなをあっと言わせるような伝統がある。みんな話を聞くのが好きで、話をするのがうまいやつがもちろんいるという、いわば土着の条件がある。それと、マルケス自身がパリで放浪しながら得たような、西ヨーロッパの伝統を自分の中に追い込んでいくという小説的な秩序という条件がある。下からはそういう土着的なエネルギーがあって、上からは一九世紀の小説の秩序体というものが入ってきて、そういうものが合体する。ただ土俗的なものだけではやはりだめです。何かの形で、ある否定媒体を通して、初めてより高いものになっていく。その高める役割を果したのはヨーロッパ体験だと思 う。
『作家との一時間』富田孝一郎
辻井喬
安部公房氏に薦められて、寝る前にガルシア・マルケスの『百年の孤独』(新潮社)を少しずつ読んでいる。これはマコンドという幻想の村が次第に膨張して都市になり、やがて滅んでゆく年代記であり、その建設以来、中心的な家族であったホセ・アルカディオ・ブエンディーアとその妻ウルスラを巡る一族の興亡の歴史である。総ての事件は円環的な時間のなかに生起し、幻想と現実との緊密な混交は神話的な世界を創り出してゆく。
*
今日において思想はすでに風俗なのだ。ロマンの可能性はもはやないかに見える。
しかし例えばマルケスの『百年の孤独』などは上述の考察に対する確固とした反証であろ う。現代の文明社会において、辺境に位置するラテンアメリカに秀れたロマンが出現していることは、示唆に富んだ事実のように思われる。
『深夜の読書』
[補遺]マルケスは辻井喬を「世界一富裕な詩人であろうが、本当にいい詩人だ」(「アミーゴ健三郎」(田村さと子訳)《新潮》平成7年3月号)と表現している。
筒井康隆
─ラテン・アメリカ文学や日本古典文学等についても是非やっていただきたいと思うのですが、来年以降の講座のご予定は?
あっ。ラテンアメリカやりますよ来年。フォークナーの小説の舞台になったヨクナパトーファ郡と、ガルシア=マルケスの小説の舞台のマコンド村みたいに、架空の土地空間を設定する共通傾向の根底にはどんな動機� �ひそんでいるかなんてね。つまりそういった設定によって作家はどのような物語学と歴史学を要請されるか、特にラテン・アメリカ作家に特有のこうした傾向を分析して、文学的本質としての超虚構詩学に肉薄しようっての。タイトルは「北米/南米文学論・架空共同体の発想」です。必読の研究書はJEAN FRANCOの「THE NATION AS IMAGED COMMUNITY」で、もう去年生協書籍部に注文済。
『文学部唯野教授のサブ・テキスト』
シモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティッシマ・トリニダッド・ボリーバル・イ・パラシオス将軍、ラテンアメリカ諸国では解放者として名高い伝説の、そして実在の英雄、シモン・ボリーバル将軍のことだが、この小説(「迷宮の将軍」)は彼を主人公にしている。[…]
惜しむらくはこの作品、間違った部分がないかどうか多くの人に点検してもらったらしく、そのため割愛した秀逸な文章もあるという。どういう文章だか、おれには想像がつくというものだ。マルケスはこれを残念がっているが、おれも残念だ。次は想像力を駆使した架空の物語を、いつもの語り口で思う存分語ってほしいものである。
「死後からの眼で見 る栄光」
ガブリエル・ガルシア=マルケスの文学についてぼくがその名を聞くなり最初に思うことは「やりきれなさの文学」であるということだ。読んでいてやりきれなくなるのではない。重層的なバロック的構成をとっている彼の作品を読んでいる間はむしろバランス感覚を満足させられる快感がある。ただ、彼の描くシチュエーションにやりきれなさを描いたものが多いのでそう連想するだけなのだ。
[…]
こうした、さまざまなやりきれなさ、われわれが比較的これに近いものを日常的に体験しているやりきれなさは、自然の猛威であれ、また浮世のしがらみであれ、どちらにしろ突如襲いかかってくる時にはまさに不条理としか言いようのない形態をとってやってくる。それゆえにこうしたやりきれなさはまさに� �学的主題といえるのであり、文学として昇華された時にはそれ故にこそ一種の甘美さを伴っているのだ。しかもマルケスに書かれることによってこれは、このやりきれなさはより荒あらしくなり、言い換えれば暴力的な甘美さとなるのである。ここにマルケスの新しさがあり、それはラテン・アメリカの他の作家にも共通する新しさである。
「マルケス─やりきれなさの文学」
ガブリエル・ガルシア=マルケスは何よりもその作品世界の、現実と超現実との「混在」というか「同居」というか、いっそのこと「居心地よき同居」とでも言った方がいいかもしれないが、そうした甘美な虚構性によって読者に悪夢を見せてくれる作家である。
「現実と超現実の居心地よい同居」
〔参照〕文献抜書帖
ディディオン、ジョーン
たまたま、それまでの数年間、私はマルティネス将軍に興味を抱いていた。マルティネス体制の精神がガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』に生命を吹き込んだように思えるからだ。この初代族長は、一九六六年、ホンジュラスに亡命中に殺されたが、サルバドル人の日常に軍事的な要素を根づかせたかなり不吉な夢想家で、大統領官邸で降霊術の会を開いたという噂もあり、常軌を逸した直感のおもむくままに国事と私事を混同しておこない、時にはその奇妙な直感をラジオで世間に流すこともあった。
「子どもがはだしでいるのはいいことだ。それでこそ、この惑星の貴重な磁気、つまり地球の振動を敏感に感じとれる。植物も動物も靴などはいていない」
「生物� �者は五感しかつきとめていない。だが実際には十個の感覚がある。飢え、渇き、生殖、排尿および排便といった感覚は、生物学者のリストにはない」
[…]
この夜、まずマクシミリアノ・エルナンデス・マルティネス将軍の孫と会い、「一九八二年セニョリータ・エルサルバドル」のお祭り騒ぎを目撃し、午前一二時二二分の地震にまでつき合ってみて、私にはガブリエル・ガルシア=マルケスが、これまでとは、まるで違った人間にみえ始めた。社会的リアリストとして、である。
*
一見、事実を公表しているようにみえながら、じつは願望やもっともらしいことを述べているにすぎないことが、よくある。ガルシア=マルケスの中にも出てくるような、〈長い歳月がすぎて銃殺隊の前� ��立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思いだしたにちがいない〉といった話だ。
『ラテンアメリカの小さな国』(千本健一郎訳)
[補遺]マルケスはマルティネス将軍と思われるエルサルバドルの独裁者についてリョサとの対談で次のように発言している。
「食べ物に毒が入っているかどうかを調べるための振り子を発明し、それをスープや肉や魚の上に吊るしたというような話とかね。振り子が左に揺れたら彼は食べ物を食べない、右に揺れたら大丈夫、食べるというわけだ。ということは、つまりこの独裁者は神智学者だったんだな。あるとき天然痘が流行したことがあって、厚生大臣や顧問官たちがどうしなけれ ばいけないかを進言した。けれど彼の答えはこうだった。
「私にはすべきことが分っている。国中の街灯を赤い紙でおおうのだ」、それで一時期、国中の街灯が赤い紙でおおわれていたことがあったんだ。」
(「宿命の対決」(野谷文昭訳)《エスクァイア日本版別冊》1990年No.2)
寺山修司
私は今、どこにいるのか?
それは昨日までいたのと〈同じ場所〉なのか?
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を劇化しながら、私は〈場所〉についてこだわりつづけている。
「場所の喪失─「百年の孤独」」
50 村の道
鋳掛屋の車にひきずられた二本の鉄の棒に吸いついてくる古釘、火掻棒などを、子供たち、目を丸くして眺めている。
子供1� ��魔法だ。
子供2=そばへ行くな、くっつけられてしまうぞ。
鋳掛屋、立ち止まって森を遠望し、
鋳掛屋=お祭りだなあ。
*
107 分家・土間
貼紙だらけの土間で、靴を洗っている捨吉。その靴に米と水を入れて、竈にのせる。と、何者かの手があらわれて、その靴をとりあげる。
大作の亡霊である。
捨吉=邪魔をしないでくれ。
大作の亡霊=(笑って)邪魔しないさ……これ、何だかわかってるのか?
捨吉=靴だ。
書いてある通りだ。
大作の手から取り戻して、竈にのせながら、
捨吉=これは「クツ」だ。
まちがいない。
大作の亡霊=しかし捨吉……靴が何するものか、おまえ、それを忘れたんじゃないのか。
捨吉=……
大作の亡霊=靴は足にはくんだ、米を炊く� ��のじゃない。
捨吉=(ハッとわれに復って)待ってくれ、大作……書いておこう。
捨吉、刷毛に墨汁をひたす。
コレハ、靴デアル。外出スルトキ、足ニハクモノデアル。飯ヲ炊クコトハデキナイ。
「百年の孤独」
どのようにカメオ詩を書くのですか
[補遺]演劇「百年の孤独」は1981年7月、東京・晴海で劇団・天井桟敷により講演された。演出も寺山修司。翌年映画化されたが、マルケスのエージェントからクレームがつき、タイトルを『さらば箱舟』変えて公開された。(『寺山修司論』高取英・思潮社)
ディアズ、ジュノ
自分の本が海外で出るって聞くと、どうかひどいことにならないようにって祈りたくなる。日本人の友達がいるんでシンチョウシャのことを聞いてみたよ。そうしたら、ガルシア=マルケスの本を何冊も出してる出版社だって言うじゃない。それなら悪いはずがないってと思ったよ。
「ドミニカと貧乏とお天気」(文・新潮 社《来るべき作家たち》編集部)
ドノソ、ホセ
ガルシア・マルケスでさえ、メキシコで映画のシナリオを書きながらやっと糊口をしのいでいたのであり、『百年の孤独』が彼の中で《熟し》、書く準備ができたとき、自分と家族が窮乏を強いられるのを承知の上で、はじめてその仕事をやめたのであった。そしてコロンビアの詩人アルバロ・ムティスなど、友人たちが貸してくれた金のおかげで閉じ籠もることができ、私の知る限り最も大きな話題をさらったスペイン語の小説を彼は書いたのである。
*
ガブリエル・ガルシア・マルケス[…]の知名度を測るもっともおもしろい事実は、私がロシアのポルノ小説のイタリア語訳を読んでいると� ��にぶつかったものであろう。あるエピソードの中で、堕落し、西欧化した新しいロシアの代表者みたいな男の主人公が、どんな快楽をも拒まない青年で、逢い引きの約束をしたいご婦人を待ちながら、乗用車ボルガのシートにもたれてラジオのスイッチを入れ、それから〈外国文学〉雑誌を広げ─世界中で読まれているがはっきりわかるように─連載中の『百年の孤独』を読むのであった。
*
私にとって、ひとつのまとまりとしての〈ブーム〉が終焉するのは─〈ブーム〉がかつて想像以上にまとまりをもち、また現実に終焉したのだとすれば─それは、一九七〇年の大晦日の夜、マリア・アントニア夫人が主人役の、バルセロナのルイス・ゴイティソロ邸でのパーティにお� ��てであり、彼女は、すそを絞った膝までの彩り豊かなビロードのズボンに、黒のブーツ、すごく豪華な宝石をいっぱい身につけて踊りを披露し、その姿はシエラザードかペトルーシェカの舞台用にレオン・バクストがつくったモデルを思い起こさせた。赤味を帯びたあごひげを生やし始めたばかりのコルタサルが、ウグネとなにかにぎやかなおどりを踊り、バルガス・ジョサ夫妻は、招待客たちに取り囲まれて、ペルーのワルツを一曲踊り、それから、たいへんな拍手に迎えられて、その同じ輪の中にガルシア=マルケス夫妻が入り、情熱的なメレンゲを踊った。
『ラテンアメリカ文学のブーム』(内田吉彦訳)
中井英夫
久しく世田谷区羽根木に住んでいるうち、友人たちからハネギウス一世と呼ばれ� ��ようになった。といってこれは、教皇のごとき威厳を保っているからではないことは無論であって、ひばりが丘に住む友人の画家を勝手にヒバリウス二世と名づけ、二人の間に暗黙の熾烈な教皇権争いが行われているという、見立ての遊びである。[…]さてハネギウス一世がここで何をしているかというと、なんとガルシア・マルケスと平賀源内の著作を読み耽るということに明け暮れているいる。[…]つい数日前、とある香料の専門誌に、源内と香りについての一文を草したばかりなのだ。
マルケスの方も、これまたバラの香りと腐臭≠ニいう理解に苦しむ注文で、一と月ほど前に手紙が来た。『族長の秋』を中心にマルケスの世界を香りから探ってくれというのだった。ちょうどその本を読みかけている最中だったので、何 だか天井裏から覗かれているみたいだと、独り暮しの小心な法王は疑心暗鬼の眼を光らせたのだが、一週間すると前の依頼を忘れたのかどうか、テーマは同じだが今度は短編集『無垢なエレンディアと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』の中の「失われた時の海」を主な題材としてという注文が届き、その文庫本が送られて来た。
「ハネギウス一世の生活と意見」
中上健次
たとえばガルシア・マルケスが出てきたときに、彼の『百年の孤独』、あるいは初期の短篇を読んで、「フォークナー読み」だなということを思った。「フォークナー読み」とは、フォークナーを読んでいるその自分の視線とか、自分のものの見方とか、あるいは感覚を、どんなふうに自分の文章の中へ入れてゆくかってこ� �を探す、僕がやったような読み方。そうしたことをマルケスはやった作家に決まっている、という直感を僕は持ったわけです。
「フォークナー衝撃」(講演)
マルケスならコーヒーはあくまでもコーヒーでしょ。そういうこだわりがあるから、リアリズムがものすごく鮮明になる。スーパーリアリズムみたいになってきて、超現実みたいなものがスーッと出てくるんだよね。おれ、ここだと思うんだよ、彼の自由な想像力の、魔術的なリアリズムというのはさ。すごく鮮明に見えているから、全然違うことになっていく。おれなんかのリアリズムっていうのは、自然との往還でどんどん変化していくものなんじゃないかと思うんだけどね。
*
彼(ボルヘス・編者註)は� �ヨーロッパの文学的教養のなかの最後の光みたいなものとしてラテンアメリカに生まれた、そういうイメージだよね。だけどマルケスは、ああ、おれたちもこんなふうにできるんだ≠チていう、ある地平をストーンと見せたんだよね。それはフエンテスにもなかったことだし、プイグにもバルガス・リョサにもない、そういう全然違う人間だったと思うよ。彼は。
「南の熱い文学」(野谷文昭との対談)
〔参照〕文献抜書帖
中村真一郎
G・ガルシアの『百年の孤独』の小説空間を構成しているのは、神話的思惟である。[…]私たちの祖先が、樹木のうえや洞穴の奥に眠っていた頃の夢の記憶を、無意識の底に今なお保存し、その感覚が目覚める時に、現実は生々しい喜びや恐� �をもって襲いかかるのである。マルケスはそうした現実を、この小説で捉えている。
『本を読む』
〔参照〕文献抜書帖
ネルーダ、パブロ
そのとき、パリのラジオが速報の最新情報を流し、一九七一年度のノーベル賞は「チリの詩人パブロ・ネルーダ」に決まったと放送した。[…]
私は手術を受けたばかりで、貧血でよたよた歩きだった。あまり動き回りたくなかった。その晩、友人たちが私といっしょに食事をしにやって来た。マッタはイタリアから、ガルシア・マルケスはバルセロナから、シケイロスはメキシコから、アルトゥロ・カマチョ・ラミレスは同じパリから、コルタサルは彼の隠れ家から、やって来た。チリ人のカルロス・バサジョは私といっしょにストッ クホルムへ行くためにローマから旅をして来た。
*
ガブリエル・ガルシア・マルケスがひどく腹を立てて、彼の驚くべき本『百年の孤独』の幾つかのエロティックなくだりがモスクワで削除されたことを、私に話してくれた。
「それはとてもまずいことです」私は刊行者たちにこういった。
「本はちっとも損なわれてはいませんよ」彼らは私にこう答えた。そして、彼らが悪意をもって削除したのではないことを私は納得した。だが、彼らは削除したのだ。
『ネルーダ回想録』(本川誠二訳)
(参照:マルケス百話54話「マルケスとネルーダ」)
パス、オクタビオ
死は快楽と切り離すことができない。タナトスはエロスの影なのだ。性 愛とは死に対する返答である。細胞は互いに結合して別の細胞を作り、そうして生きながらえて行く。生殖から逸脱したエロティシズムは、快楽すなわち死という二重の顔をもつ神によって支配される独自の世界を作り上げる。肉体的快楽を大いに賞賛している『デカメロン』の短編が、一三四八年フィレンツェを荒廃させたペストの描写ではじまっているのは決して単なる偶然ではない。また、イスパノアメリカの小説家ガブリエル・ガルシア=マルケスが愛をテーマにした小説の時代と場所に、コレラが大流行した時期のカルタヘーナを選んだのも決して偶然ではない。
『二重の炎』(井上義一・木村榮一訳)
ハミル、ピート
ガボはいいたいことを、よくやるようにあるエピソードで例証してみせた 。ここ十年のあいだとときおり、メキシコからヨーロッパに旅行するさい、四八時間だけニューヨークに立ち寄ることを許されてきた。
*
ハバナに発つ前、わたしはルベーン・ブランデスに電話をかけた。パナマ人の歌手でガボをよく知っており、この作家の作品の短篇を元にした歌のアルバムを作ったこともある。その彼がいった「ぜったいにメルセデスに会いなさい。彼の人生で最も重要な人物だ」ガルシア・マルケスもうなずく。いまだに彼女ほど興味深い人物に会ったことがないという。[…]
あちこちを転々とする彼のかたわらには、つねにメルセデスがいた。メルセデスがメキシコ・シティの大家を説得して家賃を七ヶ月遅らせてもらわなければ『百年の孤独� ��は完成を見なかったろう、とだれもが口をそろえていう。ふたりを知っているものたちにいわせると、メルセデスは夫のフィクションに登場する女たちの多くに似ているのだという。彼女たちは、まわりの男どもが自分のとっぴな言動にはまり込んでいるとき、いつだって実際的で安定しているのだ。
「マルケスとの一日」(柴田京子訳)
林真理子
ガルシア=マルケスはそうした中にあって、私の熱愛する作家である。[…]
それよりも何よりも素晴らしいことは、彼は現代の作家たちが、わざと無視しようとする物語性を持っていることではなかろうか。彼の小説を読むと、私は子どもの頃祖母から聞かされた昔話を思い出して仕方ない。どことなく恐くて、そして説明しがたいユーモアがあった� �々の物語は、幼い私をそのまま眠りの世界へと導いてくれた。
『20代に読みたい名作』
フエンテス、カルロス
コルタサルやガルシア・マルケスなども私以上に音楽に熱中していますよ。コルタサルなどはジャズ気違いで、自分でサックスまで吹くんですからね。ガルシア・マルケスの方はもっぱら聴く専門ですが、彼はどこへ行くにもカセット・テープを手放したことがありません。マルケスはアルバン・ベルクとヤナーチェックに熱中しているようです。
「中南米文学の匿れたる伝統」(山口昌男との対談)
第一の読書はわたしたちにははっきり分るような書き方に符合する。ガブリエル・ガルシア=マルケスという名の作家が、ホセ・アルカディオの息子アウレリャーノの息子ホセ・ アルカディオの息子アウレリャーノといった聖書的、ラブレー的誇張を用いて、マコンドの系譜の〈物語〉を年代順に直線的に物語っていくという書き方に。そして、この第一の読書が終わったとき、第二の読書が始まる。
「ガルシア=マルケス、第二の読書」
藤沢周
マジック・リアリズムの雄ガルシア=マルケスが九四年に発表したこの作品(『愛その他の悪霊について』編者註)もまた、豊饒なエピソードの円環的連鎖、クロスカッテング、語り手と登場人物の視点をファジーに混在させる戦略的スタイル等々、いかにもマルケスしている。
『スモーク・オン・ザ・ナイフ』
布施英利
ゴヤの絵画に銃殺の場面を描いたものがある。銃殺される人間は、恐怖からか� �きく目を見開き、両手を挙げている。ガルシア=マルケスの小説のように、少年時代の思い出が、彼の脳裏をよぎっているのか、あるいは自分の子供のことを考えているのか、その内面まではわからない。だが、何かの思いでいっぱいになっているような顔をしている。いっぽう銃殺する兵士の方は顔が描かれず、まるで殺人ロボットのような感情のない人間に描かれている。
銃殺の場面には、いろいろな視点がある。銃殺には、殺される人間だけでなく、それを「する」側の人間もいる。あるいはそれを「見る」人間もいる。
ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』には、銃殺の場面がいろいろ描かれるが、その中には、それを「見る」側の視点から描いたものもある。[…]
個々の人間は「いい人」でも、それが共 同体になると、結果として人を殺すこともある。そのような「個人」の背後にある「何か」。その恐ろしさが、ガルシア=マルケスの「銃殺」や「予告された殺人」にはこめられている。
『純文学殺人事件』
プレネル、エドウィー
この旅は、彼をもって終わるべきだった。アメリカ大陸を統一したコロンビアを夢みて、アメリカに自由の怒濤をもたらしたシモン・ボリーバルだ。それゆえ、右に引用した解放者のシニカルな遺言を創作したコロンビア人の作家を、迷路のようなメキシコの街に訪ねた。その短編の名を『最後の顔』という。コロンビア人の小説家と聞いて、おそらく読者はガブリエル・ガルシア・マルケスを想像したにちがいない。だが、私が会いにいったのは、メキシコ在住のも� �一人の偉大なコロンビア人作家、アルバロ・ムティスである。彼は長いあいだ詩人として創作活動をしていたが、その名は一般にあまり知られていなかった。最近小説が発表されてようやく大衆的な名声を得たが、彼がガルシア・マルケスの成功の陰の協力者であったことは知られていない。『百年の孤独』はムティスに捧げられているし、『迷宮の将軍』の発想は、彼が示唆したという。私たちの会見の前夜、ガルシア・マルケスはつぎの小説の初稿をムティスのもとに持ってきた。彼がガルシア・マルケスの原稿の最初の批評者になることは、長いあいだの変わらぬ習慣となっている。
『五百年後のコロンブス』(飛幡祐規訳)
別役実
多くの「通り魔事件」「覚醒剤犯罪」は言うに及ばず、「金属� �ット殺人事件」も、最近の「横浜浮浪者殺し」も、そしてその他の多くの犯罪事件が、このような構図のもとにあると、私は考えている。「何故、誰が、いつ、どのようにして、それを行ったか」ということは、はっきりしているにもかかわらず、「そこで果して何が行われたのか」ということがわからないのである。殺されたものは常に、「殺されたのだ」という事実意外、何も理解出来ないのだ。
[…]
そこで私は、この種の奇妙な事情をも大きく抱えこむ、構造としての犯罪を確かめたいと考えてきた。もし犯罪を、ひとつの因果律に促されたストーリーとしてでなく、様々な因果律が地層となって錯綜する構造として確かめることが出来たら、たとえばそれをもたらした事実としての「死」の意味は解読出来なくても、� �造内におけるその位置と力学は、確かめることが出来る。構造内におけるそうした様々な事実の位置と力学が確かめられれば、犯罪それ自体の意味は問えなくとも、それをもたらした構造の意味を問うことが出来るのではないだろうか。
ガルシア・マルケスのこの作品『予告された殺人の記録』は、こうした意味で、犯罪を構造として確かめることを意図したものであると、私は考える。
「構造としての犯罪」
辺見庸
その朝、甲虫が角を垂れ下げて傾ぎ、気勢をなくしていた。
しきりに雌に重なるか、ひたすら食っているか、ただ猛り狂っているか、わがマルコムX(甲虫のニックネーム)は、スーパーで買ってからしばらく寧日なかったのに、電池の切れかけた玩具みたいな消耗ぶりでは� ��った。
彼はしかし、エネルギーを蕩尽したのではなく、角皮の下の柔らかな心臓あたりに埋めこまれた「時」の定量を、予定のとおり使いきりつつあるのだ。すなわち、はや夏も終わると思いなし、私は急ぎ旅に出た。
東北の友人Aの、山小屋にこないか、の誘いに乗ったのである。業さらしを地でゆく、私と同い年の男だ。思うげに詩酒に淫した報いといえば報いか、醜聞、離婚、破産……で、山小屋だけが残った。
[…]
雲の切れた夜、特大の望遠鏡を調節しながらAはついに告白した。癌なのだ、と。[…]
はばかりなくいうなら、そのとき、私にはAへの同情のひとかけらもなかった。Aもそれを求めていなかった。生と死へのいかなる評言も、この世の破邪顕正も、木の間に広がる天穹の、あの哀しい� ��での無辺際にさらせば、すべて贋金のように色を失う、無に帰する、そんなていのものだと感じたからだ。
マルコムX一年、私と友人A五十二年、星雲M8三千九百光年。たまゆらと悠久とは、だが、目盛りさえこそげれば、ほとんど同じことではないのか。
ガルシア=マルケスが「時間とは『時計の時間』をしか意味しない、このオリエントの妖怪都市」と形容した東京に、私は戻った。Aの山小屋のたき火の跡から、焼け残った本を一冊拾ってきた。
繰ると「昭和十年十二月十日に/ぼくは不完全な死体として生まれ/何十年かかって/完全な死体となるのである」ではじまり「ぼくは/世界の涯てが/自分自身の夢のなかにしかないことを/知っていたのだ」(『続・寺山修司詩集』思潮社)で終わる、寺山晩年� �懐しい詩があった。
『眼の探索』
ボウデン、マーク
パブロ(パブロ・エスコバル:引用者註)のスイートの一室はオフィスになっていた。[…]ビデオのコレクションは、予想にたがわず『ゴッドファーザー』全作が揃っていて、チャック・ノリスの『オクタゴン』、スティーヴ・マックィーンの『ブリッド』、バート・レイノルズの『レンタコップ』もあった。個人用の書棚には、五冊の聖書と、グレアム・グリーンと南アフリカの作家ナディン・ゴーディマの本があった。読書家というよりは、大量に買いこむタイプの人間の書棚だった。ほかには、コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの作品と、意外なことに、オーストリアの作家シュテファン・ツヴァイクの全集もあっ� �。
『パブロを殺せ 史上最悪の麻薬王vsコロンビア、アメリカ特殊部隊』(伏見威蕃訳)
保坂和志
私はいま『百年の孤独』をずうっと読んでいたい、そしてできることならここに書かれた全てを彼らのために記憶したいと思いながら読んでいる。
『言葉の外へ』
星野智幸
実際、真楠は薄いほうの小説を読み進めながら、ハチドリとなって飛び回る。小説に書かれている言葉そのものとなって、飛び回り、ハイビスカスの花に首をつっこんで強い精のにおいがする花粉を肌にまぶし、その木の下で新聞を読む者を眺める。むせぶほどに濃く甘い香りが虫をも殺すというグァバの黄色い実にもなる。赤ん坊の握り拳のような黄色い実が山と積まれている倉庫の中に閉じ� �められた男が、翌日その実に埋もれるように倒れたまま息絶え、死体を焼く煙からもグァバの香りが漂い、その焼いた窯にうつった香りは永遠に消えないという、その香りをいまここにかぐ。
*
アウレリャーノ大佐を知っているか?我々の革命軍は、アウレリャニスタ(EALN)と名乗る。アウレリャーノ大佐は、三十二回の叛乱に失敗したのち、故郷の町に閉じ籠って、おまえのとそっくりな魚細工を作っていた。大佐はおまるを持ち込んで部屋から一歩も出ず、魚を作っては坩堝で溶かすということを繰り返していたから、ほとんど我々の手には入らないのだが、たまに売りに出たものには、グァバの香りがついていたのだ。マルコス・アウレリャーノは、話を切ると、じ� �とミツの目を見つめ、アウレリャーノ大佐も糖蜜色の肌をしていたというが、おまえはアウレリャーノ大佐の十七人の子の一人じゃないのか、それとも我々の知らない十八人目か、と猫なで声で言った。
『最後の吐息』
僕は『ドン・キホーテ』を読んでいると、笑い転げてしまうです。事件そのものがおかしいというよりも、ズレ具合に心をくすぐられるんですね。それこそが小説だと考えたいと思っています。[…]
初代のホセ・アルカディオ・ブエンディーアがものすごい研究をしている場面が地の文で延々と語られた後で、一言「地球はオレンジのように丸いんだ」とカギカッコで発表する時の、あの落差のおかしさ。
「ラテンアメリカとの混血へ!」(野谷文昭との対談)
ボルヘス、ホルヘ・ルイス
─ボルヘスさんは現代のラテンアメリカ文学をどのように見ておられますか。
残念ながら私は現代文学をあまり読んでいないんですよ。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は読みましたが、たいへんな才能だと思って感心しました。
「迷宮の森をさまよって」(聞き手/訳・杉山晃)
[補遺]一方、マルケスはボルヘスの文学についてジョサとの対談の中で次のように語っている。
「僕が今いちばん読む作家のひとりであり、これまでいちばん読んできたにもかかわらず、いちばん嫌いな作家なんだ。僕がボルヘスを読むのは、言葉の使い方における彼の並はずれた能力のためなんだ。彼はいかに書くかを教えてくれる。つまりものごとを言い表すための道具をいかに 研ぎ澄ますかということをね。そういう意味ではさっきのは評価といえる。思うにボルヘスは観念的な現実について書いている、完全な逃避だ。」(「宿命の対決」《エスクァイアる日本版別冊》1990年No.2)
(参照:マルケス百話23話「マルケスとボルヘス」)
又吉栄喜
ガルシア=マルケスは短編集をちょっと読んだだけで、『百年の孤独』のような代表作はまだ読んでないんですが、たしかに沖縄で小説を書いていく上では、大変勉強になる世界だと思いますね。
「土地の輝き、霊の力」(池澤夏樹との対談)
丸谷才一
「百年の孤独」はおそらく、将来の日本文学にとって示唆するところの多い本であろうし 、それよりもまず、読者に豊かな喜びを与える物語であろう。
「詩情と説話性のみごとな結合」
さう言へば、『百年の孤独』のブエンディーア家においては、四代の家族によく似た名前がつけられ、子供は祖先の生れ変りとして描かれているのだが、四季のやうなこのくりかへしはまさしくヨーロッパ的な歴史把握に対立するものであった。それはマルケスが、一方では二十世紀のヨーロッパ文学を介してヴィコふうの歴史哲学を学び、他方ではラテン・アメリカの時間感覚を正しく表現した結果なのである。彼が日常のなかに神話を発見することができたのは、この、別の歴史観の発見のゆゑであったにちがひない。
『ウナギと山芋』
たとえばガルシア・マルケスの小説を読んでいると、空想的に設定された共同体の� ��めに書いてるという感じがひしひしとする。
『思考のレッスン』
〔参照〕文献抜書帖
マングェル、アルベルト
【マコンド】ホセ・アルカディオ・ブエンディーアが古代に創設したコロンビアの村。[…]
近年マコンドにアメリカのバナナ農場が造られ、町は鉄道で世界の国々と結ばれた。しかし、ストライキと、降り続く雨と、その後の旱魃のために、バナナ会社は農場を撤去し、マコンドの繁栄も激しい突風になぎ倒されて地球の表面から跡形もなく消えてしまったといわれている。
『世界文学にみる架空地名空想大事典』
もちろん、我々が作者が夢中になっているのはフィクションを読むということばかりではない。科学的な冊子や辞典、索引とか脚注、献� �のような書物の一部、あるいは地図や新聞などを読むことについても、それぞれ論じる価値があるものとされ、実際に一章が割り当てられる。毎晩、二ページほど辞書(辞書なら何でもよかったが、『真のスペイン学術辞典』という大げさなものだけは除かれていた)を読むことを習慣としていた小説家ガブリエル・ガルシア・マルケスについても、短いながら彼の特徴をよく捉えた記述があり、我らが作者は、マルケスのこの習慣を、簡潔にして正確な文体で書けるようにとナポレオン法典を熟読していたスタンダールのそれに準えている。
『読書の歴史』(原田範行訳)
三木卓
南米の小説を読むと、何か座標が違っちゃっているという感じを受けますね。結局、二十世紀の芸術革命の波が南米まで 及んで、それがああいう形で花開き、マルケスとか、ドノソとか、リョサが生まれた。彼らの書く小説世界は、ほんとにすごいですよね。
「名作を見る楽しみ、読む喜び」井上荒野との対談
三田誠広
ガルシア=マルケスの場合、「神話的リアリズム」とでもいうべきスタイルです。あるいは「マジックリアリズム」という方もありますが、話の展開に独特のリズムがあって、そのリズムに乗せられると、もはや何が起こっても驚かない。[…]この『百年の孤独』という作品は、一つひとつのエピソードが面白く、細部が鮮やかに描かれています。人物に個性がある。そしてもちろん繰り返しという、神話の特質もそなえています。もう一つ、この作品には仕掛けがありまして、冒頭部分に「枠物語」が あるわけではないのですが、やはり「物語の物語」になっている。
『深くておいしい小説の書き方』
はっきり言って、『枯木灘』は、『百年の孤独』を超えています。こう言うと、コロンビアの読者が怒るかもしれません。これは私の個人的な印象ですし、私はコロンビアに行ったこともないし、何の知識ももっていないので、コロンビアの辺境の村について、具体的なイメージがもてないのに対し、紀州の新宮なら、ある程度のことはわかります。[…]
しかし中上健次には、もう一つの代表作があります。それは一つの作品ではなく、作品群とでも言うべきものです。『千年の愉楽』という短篇集が出発点です。[…]
これも明らかに神話的な構造を狙って書かれたもので、『千年の愉楽』というタイトルからし て、『百年の孤独』を意識しています。と言うよりも、ガルシア=マルケスより十倍もすごいものを書いてやろうという意気込みが伝わってくるタイトルですね。
『書く前に読もう超明解文学史』
宮内勝典
先行作家たちの仕事を思い浮かべるたびに、とても乗り越えられそうもない(憎たらしいほど)遥かな峰々が立ちはだかっているような気がして、つい意気阻喪してしまうことがよくある。ドストエフスキー、メルヴィル、プルースト、カフカ、ジョイス、フォークナー……。けれど、こうした巨匠たちはすでにこの世にいないのだから、それほど厄介な自己嫌悪に陥らずにすむ。ところがガルシア=マルケスは、いま、まさに生きていて、今日も昼めしを食べ、スペイン語と日本語の違いはあるけ れど同じようなニュースが載っている新聞を読み、トイレや映画館に行ったり、ワープロを叩いたりしているはずだ。
『百年の孤独』『族長の秋』を書いた作家が同時代に生きていることを(月とスッポンのくせにと笑われるだろうけれど)いつも意識しつづけてきた。意識せざるを得なかった。その二冊はデスクの右側の棚、手を伸ばせばすぐ届くところにおいてある。
「屹立する峰、ガルシア=マルケス」
三好徹
じつは昨年の秋、カラカスで開かれたペン大会に出たさいに、ラテンアメリカを代表する二人の作家、ガルシア=マルケスとバルガス=ジョサがきわめて仲が悪いことを聞いた。日本ペンクラブは、この二人に東京大会へきてもらうつもりでいるのだ、というと、
「それはやめた� �がいい。あの二人が同じ場所で顔を合わせれば必ずファイトになる」
と、その話をしてくれた人は、ボクシングの真似をしてみせた。
それは決して冗談ではないらしく、居合わせた国際ペンの人をもうなずいていた。
そのときは、両者がどうして不仲なのか、わからなかったが、あとで両者の作品を読んでみて、何となくわかってきた。
バルガス=ジョサは、かつて国際ペンの会長をつとめたこともあり、ラテンアメリカの作家のなかでは、もっとも西欧型に近い作風である。これに対してガルシア=マルケスは、もっとも遠い所に位置している。日本の歴史にたとえていうと、バルガス=ジョサは開国論者であり、ガルシア=マルケスは攘夷党なのだ。二人が同じ部屋にいれば、取っ組みあいの喧嘩になったとして� ��、決しておかしくはないのである。
『風の旅 心の地図』
村上春樹
でも僕は、マルケスの『百年の孤独』はどっちかというと都市の小説ではないかという気がします。
*
何もないところから突然できちゃって、それがなにかのかげんでなくなっちゃうわけでしょう。あれは一種の土俗的な都市というよりは、それを捨てた都市の話で、最後はその土地にのみ込まれちゃうけと、その意味では一つの都市小説ではないかなという気がしたんですけど。
「仕事の現場から」中上健次との対談
村上龍
Q─あなたはさまざまなところでマルケスを始めとするラテンアメリカ文学について喋ったり書いたりしていますが、本当に読んだこ とがあるのですか?。
A─すみません、実は、一切読み通したことはないのです。
Q─ひどい話だな。
A─でも、好きなんです。何となく雰囲気はわかりますから、読まなくても。
「ラテンアメリカに関するQ&A]
村田喜代子
やっぱりみんなユートピアを自分でつくりたいのではないかしら。私なら、現実には村田喜代子の生涯しか獲得できないわけですが、物語の中でもっとたくさんの世界を生きたいんですね。『蕨野行』を書いた時は本当によく生きたと思いました。書き上げた朝なんか、二階から下りながら里に帰ってくるお姑(ババ)になりきったように、<ああ、この世に戻りてありつるか>というせりふが浮かびましたものね。ガルシア=マルケスも『百年の孤独』を書いた時は� ��く生きたんだろうなあ。
*
(中国敦厚の莫高窟を訪ね、ジャータカ物語の壁画を見て)
ふっとマルケスを身近に感じ、そばにいたら、大いなる人間の物語について語りかけたい気分でした。また、稲垣足穂の『地上とは思い出ならずや』という言葉も浮かんだんですよ。
「時代の肖像 物語」聞き手・まとめ 田口淳一
群ようこ
「百年の孤独」を読みながら、これは今の日本と同じような気がしてきた。[…]
あるとき、村で物忘れをする病がはやり、物忘れをするようになってしまった。そしてブエンディーアは自分がやっているやり方、ある物すべてに刷毛で名前を書きつけることを強制した。[…]
たまたま近所の若者が集まるコンビニにい ったとき、野菜の棚にひとつひとつ、手書きで野菜の名前が書いてあるのを見て、びっくりしたばかりである。「にんじん」のところにはにんじんが、「じゃがいも」のところにはじゃがいもが、「たまねぎ」のところにたまねぎが置いてあるのだが、こんなことまで表示しなければ、野菜の名前すらわからないのかと唖然としたばかりなのだ。まさにマコンド村と同じような状況に陥っているのであった。
『本は鞄をとびだして』
(『百年の孤独』の何ページ目ぐらいから面白くなるかという問に答えて・編者註)
何ページ目って言われてもね。おばあちゃんが、コオロギみたいなミイラになって縮んで死んでいくっていうところから面白くなる。
「勉強が嫌いで本読んで、仕事が嫌で本読んで」(西原理恵子との対談)
莫言(モウ・イエン)
─莫言文学をめぐっては、特にその魔術的リアリズムという点においてアメリカ南部の作家フォークナーおよびラテンアメリカ文学のガルシア・マルケスとの影響関係が指摘されていますが、あなた自身はこれについてどうお考えでしょうか。
莫言 確実に影響を受けております。特に初期の作品には二人の影響が現れているものもあることでしょう。
─二人のどのような作品を読みましたか。
莫言 いろいろ読むには読んだというか、どれも読み終えることが出来なくて…(笑)。
─具体的には、どんな作品を読んだというか、読みかけたのですか(笑)。
莫言 実は読みかけたというとこまでも行きませんで……(笑)。
たとえばマルケスの『百年の孤独』で� �。これは二、三ページ読むなり衝撃を受けまして、頭の中がどうしようもない興奮状態となってしまったのです。あっという間に私の頭の中で静まっていたありとあらゆる現実が照らし出され、それぞれが自在に動き始めました。私は一刻の猶予もならず筆を執るや原稿用紙に向かったのです。とても一冊読み通して勉強するなどという精神状態ではありませんでした。マルケスの物語自体は私にとってそれほど新鮮なものではなかったのですが、小説の手法というか思考の回路にたいへん啓発されたのです。
「中国の村と、軍から出てきた魔術的リアリズム」(聞き手/訳・藤井省三)
[補遺]莫言と『百年の孤独』について、上に引いたインタビューの聞き手であり訳者の藤井省三による次のような文章がある。
「一� ��八四年秋の夜、北京市白石橋路にある解放軍芸術学院、略称軍芸宿舎の自室に戻ってきた莫言は、小脇に一冊の翻訳書を抱えていた。表紙に「加・加西亜・馬爾克斬 百年孤独」と印刷されたこの本は、上海訳文出版社から刊行されたばかりの小説『百年の孤独』で[…]中国ではその荒唐無稽なほどのエピソードと魔術的リアリズムの手法のため、当局の警戒を呼び起こしたのであろうか、紹介もままならず、八二年のノーベル賞受賞後にようやく完訳版刊行の運びとなったのである。」
(『百年の中国人』藤井省三・朝日新聞社)
『百年の孤独』いや『百年孤独』を二、三ページ読んで受けた衝撃から、莫言がまず書きあげたのが「透明な人参」であった。
モラヴィア、アルベルト
� ��ガブリエル・ガルシア・マルケスもアレクサンドリア的文化の後継者ですか?
もちろんだ。フォークロアに依拠して叙事詩を書いているわけだ。彼がサルモン、ルシュディに対比されるのは偶然ではない。ルシュディがインドについて行ったことを、マルケスは南アメリカについて行ったのだから。しかしマルケスは、いずれにせよ、ひじょうに注目すべき作家だろう。特に『予告された殺人の記録』はね。
『モラヴィア自伝』アルベルト・モラヴィア/アラン・エルカン 大久保昭男訳
[補遺]「アレクサンドリア的」とは極度に技巧と洗練を志向する立場を指す。モラヴィアによれば、カポーティ、ヴォネガット、カーヴァー、トビアス・ウォルフ、トム・ウルフ、カーソン・マッカラーズ、ポール・ボ� �ルズ、メアリ・マッカッシー、ヘンリー・ミラーなどがアメリカ文学におけるアレクサンドリア的作家だという。
森毅
ぼくの好きな作家ベスト5は、ヴァージニア・ウルフ、マルセル・プルースト、フランツ・カフカ、ガルシア・マルケス(コロンビア。『百年の孤独』など)、ギュンター・グラス(独)です。ちょっとお洒落なのが好きだし、ジャンル・クロスオーバーみたいのがいいんです。メジャーっぽいのはぼくの好みではありません。
*
作品のリゾーム性ということで言えば、ガルシア・マルケスはプルーストよりももっとひどくて、同じ名前の人間が何度も出でくる。二度目に読むときに表や系図をつくってやっと少しはわかるというものです。だけど、あれはわからなくて もよいような物語です。言ってみれば、村のおばあさんが昔話をしていて、「茂久衛門さんが」と言うのだけれど、しばらくしてまた出てくる茂久衛門さんはさっきの茂久衛門さんではなく、三代目の茂久衛門さんだったというような文章です。あれも時間がぐちゃぐちゃになっています。そういう意味では、時間の流れというもの、いわばモダンな、順序立った時間の流れというのを解体しているのです。
『ゆきあたりばったり文学講義』
八木啓代
信じられない暑さが、客席の濃密な闇と絡み合って、人びとの躯から夥しい水分を絞り出している。
《人びとの汗がぽたぽた流れ、流れは小さな小川をつくり、劇場の階段を曲がりくねりながら舞台のほうに流れていった。舞台の音楽家たちも、暑さ� ��シャツを肌に貼りつかせ、そこから滲み出る汗は、さきほどの小川と合流して、舞台の裾に奇妙なかたちの池をつくりはじめていった》
作家のガルシア=マルケスなら、状況をそんなふうに表現したにちがいない。
『PANDRA REPORT』
柳田邦男
冷たい夏の日の夕暮れに、私の二十五歳になる次男洋二郎が、突然自ら死出の旅に出てしまった。[…]
並べられたギリシアから現代に至る主要な小説の背表紙のタイトルを順に見ていくと、彼が私との会話で何度となく話題にしたことのあるいくつもの書名が目に飛びこんでくる。ついこの間も、そのなかの一冊を、私は胸のいたみと懐かしさとをないまぜにした複雑な気持で取り出してみた。
人間存在の亀裂を示すような、白� ��とブルー地で上下を不規則に分割した図柄の装幀の『新潮・現代世界の文学』の一冊、現代ラテンアメリカ文学を代表する作品といわれるコロンビアのノーベル賞文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だ。[…]
小説を愉しみとして読むというゆとりのある読者なら、この結末を見事なアイディアとかすばらしい構想力といって称讃するだろう。しかし洋二郎はカフカを読むのと同じように、ガルシア=マルケスのこの作品についても、自分を作品の内部に同化させ、自分の実存を賭けて、読んだので、ブエンディーア一家百年の営みが、マコンドの町全体とともに消滅し、人間の記憶から消えてしまうという結末を心底から「これは恐ろしいことだ」と何度も語ったものだった。
『犠牲 わが息子� ��脳死の11日』
矢作俊彦
(『誘拐』を◎評価して;編者註)
マルケスのノンフィクションは常に最も良質のミステリーだ。どんな作家ともジャーリストとも、目の置き場が違っている。
「新刊 私の◎○」《朝日新聞》
山口泉
G・ガルシア=マルケスが何を書いても、それは巧妙に造り込まれた「映画」を観ることを言語において疑似体験する以上の行為ではないという「あたり」を、私はつける。
「「想像力」の根源へ」
山口昌男
オクタビオ・パスと私の対談はその後スペインの出版社から刊行された"Pasion critica"という書物にも再録された。[…]ラテン・アメリカ文学の作家ではその後も、バルガス=ジョサとカルロス・フェンテスとも行い、ガルシア・マルケスとはパリで会ったときに、次に日本を訪れたときにやろうと言ったままガルシア=マルケスがその後訪れていないのでそのままになっている。
「別れのとき」
吉本ばなな
「カスタネダが書いたメキシコのヤキ・インディアンの本とか、ガルシア=マルケスやオクタビオ・パスの作品を読んでいて、今まで納得できなかった部分が、行っている間にピーンと分かった瞬間があった。そういう世界観の違いを一つ受け入れたような気持は貴重だった。」
(『不倫と南米』上梓後の毎日新聞によるインタビュー。文中、「行ってる間」とは� ��九九八年春のアルゼンチン、ブラジルの取材旅行のこと。)
「男女の心の陰影を巧みに」
ロペス、ベゴーニャ
用いる凶器に関しては、ずっと前から目標を定めていた。今度のように必要なときもあろうかと思って、心の奥深く留めていた凶器だった。たまたま傍に誰もいないときをみはからって持ち出し、窓の外に張り出している手摺りに置いた。それを手に入れるには、飾り棚と本棚が一緒になったような奇妙な家具によじのぼらねばならなかった。葡萄の蔓や怪物の顔の装飾がごてごて彫られたとんでもない代物だった。その上に多くのガラクタにまじって置いてあったのが、昔の薬屋が使った臼と、青銅の柄に大理石の円柱状の先端がついた大きな杵であった。重さ八ポンドはあったろう。臼の中にはひからびたゴキブリの死骸とイモリの卵が二つ、それに沢山の蛾が死んでいた。いずれも今� ��紀はじめ頃のものだろう。このデータは記憶しておいた。将来、どこかの上品な知的集まりの席上で、ガルシア・マルケスやウンベルト・エーコ(最近よく取り上げられる人物だ)について議論が交わされているときに、初めて発表するのだ。
「皆さん、この本棚の上から……半世紀間にわたる蛾をお見せしましょう」
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毎週土曜日に我が家で開かれる集まりは、この日も盛況だった。[…]バルガス=リョサとガルシア・マルケスは、どちらがより秀れているかという熱のこもった討論が興味津々でつづけられ、輝くような頭脳のひらめきさえ随所に感じられた。[…]「僕が思うに、『百年の孤独』に言及しないままマルケスとリョサを論じたところで、勝負はつき� �こないね。このとんでもない本を半分でも読めば結論は明らかだよ。ジョイスの『ユリシーズ』、トーマス・マンの『魔の山』、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』、そして『百年の孤独』の四冊こそ、今世紀でもっとも重要な作品だと僕は思う」
『死がお待ちかね』(竹野泰文訳)
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